明野に住む

「なぜ、明野に住んだの?」 と良く聞かれます。私達の場合、行き当たりばったりにそうなってしまったのです。どうしてそうなったか、という、一口で説明出来ない事情を綴った文です
 この文は私達が明野に家を買った当時書き留めて置いたものです。今は北杜市明野町ですが、その当時は「明野村」でした。ホームページ上で発表した2007年とは大きく諸事情が変わっていることをお断りします。



1    1 車を買う。
1986年。それは私の43歳の春のことでした。かねてから「将来はいなかで暮らす。」と何となく決めていた私達夫婦でしたが、「田舎暮らしには車が使えた方が良い。それにはそろそろ運転を再開した方が良い。それでは車を買いましょう。」ということになって、吹き始めた春風に誘われて、ぽかぽか暖かい3月の日曜日、散歩がてら主人と私と娘の三人で、車の下見に、とショールームに出かけたのでした。ところが話は、あれよあれよ、という間に進み、主人が型を決め、娘が色を決め、運転する私がまだ決心しかねているのに一時間後には、契約書にハンコを押していたのです。そして三月中に納車、四月のはじめから練習という段取りになりました。
 
 私が免許を取ったのは、大学三年の時、21歳の時でしたから、約22年間、完全なペーパードライバーでした。新車を買ってから練習、などとは何と無謀な、と思う人もいるでしょう。中古を買って乗り回した後新車を買おうかとも考えましたが、熟慮の上での私達の結論でした。
 因みに主人の方は、結婚するまでは250ccのオートバイを散々乗り回し、昔の道路事情の悪い時代に、結構遠くまでツーリングをしていたオートバイ・マニアで、車の運転も出来たのですが、その当時は酔っぱらい運転が横行していた時代だったので、結婚を機に私が、「お酒を取るか、車を取るかどっちかにして下さい。」と迫ったところ、あっさりお酒の方を取り、「どうせ乗らないから要らない。」と免許の方も切ってしまい、その後は無免許の身の上となっていました。
 22年間車を買わなかったのは、全然その必要を感じなかったからです。東京暮らしの普通のサラリーマンには、マイカーは不要、不便、不経済、むしろ有害だと考えていたからで、今でもこの考えに変わりはありません。ですから車を買った後も都内で用をする場合、滅多に車は使いません。よほど多くの荷物がある時に限ります。そんな私達が敢えて車を買ったのは、ただ漠然としたカンのようなものでした。「50歳になってからでは遅すぎるのではないか。」そんな直感的、独断的な結論からでした。
 明野村と私達の運命的な結びつきは、私達も気づかないうちに、このへんから始まっていたような気がします。
 
 
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2    私と主人のこと
 主人はその年51歳、東京の公立中学校で美術を教える教師でした。専門は油絵で、蒼騎会という絵の会に所属して大学卒業以来ずっと描いています。いまは風景画が中心です。何度か個展も開きましたが、あまり「売れない絵描き」で画業は完全大赤字。「いつか絵が売れて、絵で税金を払うのがユメだ。」 と、口では言っていますが、本人はあまり熱心に売ろうとか 、売れる絵を描こうという気がなく、「おれは自分で本当に描きたい絵しか描かないよ。死ぬまでに一点でも良いから自分で本当に満足できる絵が描ければいいなあ。」と、現実離れしたことを申しております。でも、よその人から「絵をお描きになるんですか。よいご趣味ですね。」と言われると、ムッとしています。
 私はやはり、東京の公立中学校で英語を教える教師でした。妻、母親、主婦、教師と、四足の草鞋を履き、どれもこれも中途半端になることに悩みながらも、欲張って頑張ってきました。日夜せかせかと動き回り、そのせいかちっとも太れず、健康だけを頼りに、綱渡りのような生活をしていました。それでも好奇心だけは強く、夏休み、冬休み、春休みは、主人を唆して、山登りだ、スキーだ、海外旅行だと、先頭に立って出歩いているので、「おまえは奥様ではなく、お外様だ。」と言われていました。
 主人が私に山とスキーとアマチュア無線を教え、私が主人に海外旅行の味を占めさせたので、子供が小さいときは子連れで、今では二人で出歩いています。
 二人ともお金儲けは下手ですが、お金のかかる趣味が多いので、普段の生活はなるべく質素にと心がけていました。家も借家です。借金すれば家ぐらい買えなくはない、と思ったこともありましたが、それでは旅行も出来ない、個展も出来ない、では家はやめよう、と言うことになり、ずっと借家住まいです。良い家と、良い大家さんに恵まれた、という幸運もありました。
 二人とも東京の大学を出て以来、東京で仕事をし、結婚後は私の実家に近く、杉並区荻窪に住んでいました。子供は二人。上の子はは就職しており、下の子は中学三年生でした。
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3    運転の練習
車を買ったら早速春休みを利用して練習することにしました。最初は電話帳で探した、ペーパードライバー教習の個人指導を受けました。教習員の方が自宅まで来て私の車に乗り換え、先生の運転で適当な場所へ連れていって貰い、教習をするのです。5日ぐらいやって何となくカンが戻りました。それからは助手席に主人が乗ってくれて練習です。主人の先生はなかなか厳しいものでした。自分は免許が無いくせに、運転経験は私の100倍以上もあるのです。それに私は優柔不断のこわがりで、主人は決断の早い人ですから、私の運転には相当イライラしたようで、いつも怒られっぱなしでした。でも彼もガマンしてつき合ってくれましたので、私もガマンしました。
 私が現在平気で車を乗り回し、車を買って1年後にはカナダのハイウェイを、4年後にはドイツのアウトバーンをすっ飛ばせたのは彼のおかげだと、感謝しています。
 世のダンナ方という者は、自分が運転ができると、奥様には運転させたがらない人が多いと聞きますが、うちの場合は主人が無免許だったのが良かったと思います。
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4    明野行きの話。
「今度のゴールデン・ウィークに明野村という処へ行ってみないか。」四月の日曜日を利用して山梨県へスケッチ旅行に行ってきた主人が言い出しました。「ええ、良いわよ。」と言いながら、私は主人がなぜそんな地名を言い出したのかわかりませんでした。
 今までも主人は山梨の峡北の山を描くのだと言って、たびたびスケッチ旅行に出かけ、帰ってくると、そのとき歩いた町や村の話をしてくれました。大泉、小泉、小淵沢、長坂、日野春、新府などは聞き慣れた名前でしたが、明野は初めて聞く名前だったのです。でも主人は熱心に言うのです。「八ヶ岳や、甲斐駒、鳳凰を描くのにとても良い場所なんだ。今年の夏休みは民宿にでも泊まって、一夏そこで描いてみたいんだ。」それで私もそこへ行ってみたくなりました。ゴールデンウィークにはその下準備のために行こう、と言うのです。時刻表を見て最寄りの韮崎の「海東ペンション」に予約を取りました。
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5    娘は今年受験生
娘はその年、中学三年生でした。この夏休みは、来春に高校受験を控えている、大切な時期です。幼い頃から私が忙しすぎて十分面倒を見てやれなかったせいか、または私達も「勉強、勉強。」と追い立てなかったせいか、本人もいたってのんきに育ちました。ところが成績の方がどうもパッとしません。せめてこの夏休みにひとがんばりしてほしい、という親としての期待もありました。そのために、今年は旅行はおあずけにして、娘の側にいてやりたいと思っていました。もし娘が予備校などでやっている夏期講習に行きたい、と言ったら、私は東京に残り、夏は主人一人で明野に行って貰おうと思いました。
 娘にその話をすると、娘は「私は塾や講習には向いていないから行かない。自分で勉強するから、お母さん教えて。」と言うのです。今まで「教えて。」などと言ったことのない娘でしたが、このときは自分なりに良く考えた上での結論のようでした。それで「すべて私の作った勉強計画の通りにやる、」という約束で私が個人指導をすることにし、この夏は親子三人で明野村に泊まり込むことに決めました。主人は絵を描く人、私は勉強を教える人、娘は勉強する人、という合宿です。
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6    高速道路初体験
 ゴールデン・ウィークの明野行きは、私にとって明野に対する期待より、高速道路初乗り、という緊張と不安の方が大きかったのです。ところが中央道調布インターを入ったとたん、大渋滞にぶつかりました。ゴールデン・ウィークの高速道路は渋滞する、という意識さえなかったほどの認識不足ぶりでした。時々完全に停止してしまうようなノロノロで、「高速に入ったら80キロ以上で走行しなくてはならない。」という不安にとりつかれていた私は、むしろホッとしました。流れ出したのは大月をすぎてからだったでしょうか。次第にスピードが増し、私もスムーズに高速運転に入ることが出来ました。そして思ったより快適な高速運転を楽しんでいる自分を発見していました。
 韮崎インターをおりて、すぐ側の海東ペンションに、その夜は一泊したのでした。
 
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7    初めての明野
 翌朝はあいにくの雨でした。主人が先日のスケッチ旅行の時知り合った、明野村のFさんに電話しました。「こちらに来ているので今日ちょっと立ち寄りたいが。」と言うと、お宅へ行く道順を教えて下さいました。
 ペンションを出て、茅ヶ岳広域農道に入り、広域農道記念碑まで来ました。前年の秋のスケッチ旅行の時、甲府のタクシーの運転手さんに「どこか八ヶ岳を描くのに良い場所は無いか。」と、たずねたら、ここに連れてきてくれたのだそうです。ここからの眺めは最高だそうですが、その日はあいにく山は見えませんでした。茅ヶ岳の長いなだらかな裾野に位置し、山あいにもこんな広々とした処があるのか、と思うくらい空が広く、家は一軒も見えません。
 記念碑の十字路で左に折れ、役場の方へ下る道を取りました。右手のリンゴ園はちょうど花を付けていました。その下の松林の中に入って、私は思わず息をのむような美しさに、我を忘れるほどでした。明野の新緑は東京付近よりかなり遅く、ちょうど芽吹いたうす黄緑色の雑木の新芽が、赤松の幹と入り交じり、折からの雨に打たれて赤松の幹はより赤みを増し、松葉は深緑、新緑の黄緑は透明感を増し、言いようのない美しさだったのです。その松と新緑のトンネルの下の小道をゆっくり車を進めながらまるでユメの世界にいるような境地をさまよっていました。
 モンゴメリの「赤毛のアン」という、私の大好きな小説で、アンが初めてアボンリーの村に来たとき、途中の道の桜並木の美しさに感動して口が利けなくなるシーンを思い出しました。「明野ってすてきなところだな。」「私が大好きになりそうな処だな。」と、直感しました。
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8    一夏の宿探し
 Fさんのお宅に着いたときも、雨が降っていました。Fさんは母屋から離れた、別棟に住んでおられました。カラオケ・セットが目立ちました。池には錦鯉が泳いでいました。優雅な暮らしの様です。主人は早速「今年の夏、明野村に滞在したいのですが、民宿はありますか。」と聞きました。あいにく「ない、」とのことでした。「では、一夏だけ一軒、または一部屋でも良いが、貸してもらえるお宅はないでしょうか。」 と聞きました。
 私達のお願いに対して、幾つか心当たりがある、と言うことなので、「相手の方に打診して、承知してくれたら連絡して下さい。」と言って、こちらの住所、電話番号をおいて帰りました。
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9    一夏の宿が決まる
 東京に帰ってから、私達は首を長くして、Fさんからの連絡を待っていました。処が何の音沙汰も有りません。しびれを切らしてこちらから電話してみると、「心当たりを当たったがだめだった。」とのこと。そこで作戦変更して、明野村役場に電話してみました。そこで紹介されたのが、一本松の大工さんのYさんのお宅だったのです。いきなりYさんのお宅に電話して用件を話すと、快く引き受けて下さいました。宿泊料の相談もせず話を決めました。この夏、明野村で過ごせるのだと思うと、胸がワクワクしました。6月も半ばをすぎた頃でした。
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10    即席民宿「あけの荘」
いよいよ夏休み到来! 宅急便で三つの荷物を送り、車いっぱいに身の回りの品や絵の道具を積み込んで、私達はYさん宅に到着しました。着いたときYさんは私達のための専用洗面台や、専用トイレを設置する工事中で、部屋は材木の切りかす、カンナくず、のこくずなどでサンジラカシの状態でした。
 私達が借りるはずになっていた部屋は、二階の六畳と八畳の二間続きで、南側と西側には一間幅の廊下があり、約15坪分の広さです。専用洗面台や専用トイレや床の間も有ります。南側の広々としたガラス戸からは、富士山が大きく真正面に見えています。西側のガラス戸からは甲斐駒と鳳凰が見えています。
 しばらく待って、洗面台とトイレが完成し、私と娘でのこくずやカンナくずを掃除しました。お客がまず部屋掃除だなんて・・・と笑いながら。
 
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