明野に住む

「なぜ、明野に住んだの?」 と良く聞かれます。私達の場合、行き当たりばったりにそうなってしまったのです。どうしてそうなったか、という、一口で説明出来ない事情を綴った文です
 この文は私達が明野に家を買った当時書き留めて置いたものです。今は北杜市明野町ですが、その当時は「明野村」でした。ホームページ上で発表した2007年とは大きく諸事情が変わっていることをお断りします。



11    山の眺め
 私達の部屋からの富士山の眺めは最高でした。日の出前から夜まで、刻々とその色や雰囲気が変わります。私達は暇さえ有れば富士山を見ていました。夜、空気の澄んだ日には、灯火を点けて富士登山している人の列が見える日もありました。私達が時々出かけた広域農道記念碑も、山を見る絶好の地でした。背には茅ヶ岳、金ヶ岳を負い、左(南)から富士山、御坂山塊、毛無山、櫛形山、甘利山、正面(西)には鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳、鋸山、入笠山、右(北)には八ヶ岳、と、360度雄大な山の展望が楽しめます。特に条件の良い日には北アルプスの槍、穂高も見えるとのことです。
 広域農道ドライブの休憩地点としても好適で、駐車場、水洗トイレ、公衆電話、水道、東屋が有り、木や花も沢山植えてあり、ここへお弁当を持ってきて食べるのも良いな、と思います。普段は人気のない静かな場所です。
 明野村にはこのほかにも前に挙げた山々を見るのに良い場所がたくさんあります。風景画を描く人にとっては天国でしょう。道路のカーブを曲がったとたん,ハッとするほど美しく大きな山に出会うこともしばしばです。
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12    娘と私のタイムテーブル
 ここでの私達の典型的なタイムテーブルは次の通りです。朝食が済むと、8時から10時までが第1ラウンド、10時から12時までが第2ラウンド、昼食と休憩の後、3時から5時までが第3ラウンド、風呂と夕食の後7時から9時までが第4ラウンド、と、一日8時間の勉強時間です。1ラウンド2時間と言っても、少し送れて始めたり、早く終わったりするので賞味1時間半から1時間40分程度でした。また、夜は母娘とも眠くなって、1時間ぐらいで終わることも有りました。
 娘が勉強している間は、私も殆ど付き切りでそばに座って、時には教え、時には励まし、時には叱りました。完全に口うるさい教育ママになりました。家でも普段はこんな事はしたことが無いのですが、家事、炊事から解放されていたので出来たのです。
 私にとっても自由のない、楽ではない日程でしたが、普段面倒を見てやれない罪滅ぼしのつもりもありました。それにしても娘も良く耐えたと思います。自分から「教えて下さい。」と言った手前も有ったと思いますが、文句も言わず、反抗もせず普段の彼女に似ず黙々と勉強しました。
 楽しみと言えば、Yさんの飼い犬のチロー君を連れて、朝の散歩に行くことぐらいでした。テレビもラジオも無く、友達もいない、勉強一筋の日々でした。
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13    主人のタイムテーブル
 主人は9時過ぎから写生に出かけます。一人でキャンバスや絵の具を背負って、歩いて出かけることも有りますが、私に車を出させて、ある地点まで送らせることも有りました。私は主人をおろすと又戻って勉強のつきあいです。私も主人もアマチュア無線をやるので二人で無線機を手元に置いてワッチしていました。10時、11時、12時の 正時にはお互いに声を出す約束になっていました。主人はスケッチが終わると私を無線で呼びだして現在地を告げ、迎えに来させるのでした。主人を連れ戻るともう昼食でした。午後ももう一度出かけることも有りましたが、部屋でスケッチの整理をしたりしました。雨が降ると部屋から見える景色を描くことも有りました。
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14    明野村の住み心地・・・気温
 上手一本松のバス停の脇、県道沿いのYさんのお宅は、標高530メートル〜540メートル、韮崎市の暑さは届きません。八ヶ岳高原や河口湖ほどの涼しさはありませんが、東京に比べると気温は3〜4度低く、湿度が低く風通しが良いので、とても凌ぎよい感じでした。又、Yさんのお宅は南側はほぼ足下から鴨居までガラス戸で、開け放すことが出来、北側にも窓があるので、風通しは抜群の建て方です。家の中で勉強していると、日中風のない日は、時には「暑い。」と感じることも有りましたが、「暑苦しい。」と言うほどでは有りません。
 日中、外でスケッチしている主人は、日なたはさすがに暑くて、汗がダラダラ出るけれども、日陰に入ると涼しい、と言っていました。
 朝夕は涼しく、夜は寒いくらいの日も有りました。戸を全部締めて、普通の掛布団(夏掛けやタオルケットではない)を書けて、ちょうど良い温度でした。
 Yさんは私達が暑いのではないかと心配して、普段は使っていない扇風機を引っぱり出して貸して下さいましたが、扇風機が必要だったのはごく短い期間でした。この辺の家で、クーラーが有るのはお寿司やさんぐらいなものだそうですが、納得しました。
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15    明野村の暮らし・・・蚊
田舎暮らしでは蚊が多いのではないかと心配しました。東京の荻窪の家でも、いつも蚊取りマットを使っていますし、家の外はいつも蚊がブンブンしているくらいです。
 そこでプロの宿屋ではないYさん宅には私達の分の蚊帳は無いだろうと思って、行く前に電話で問い合わせました。「こちらから蚊帳を持っていきましょうか。」と。するとYさんはピンとこないような声で「蚊帳ねー」「ここでは必要ないと思いますよ。」といわれるので、持っていきませんでした。
 Yさんは心配して、蚊取りマットを貸して下さいましたが、実際殆ど蚊はおらず、それを使ったのも、夜中に蚊の羽音を聞いて点けた、数回だけだったのです。
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16    星空の美しさ。ホタル。
ある朝娘が「昨日の夜トイレに起きたとき、空があんまりきれいだったので、一人で外に出て星を見ていたの。お母さんも今度一緒に見ようよ。」と言うので、晴れた日の夜、三人で外に出てみました。県道から少し下がって、田圃の真ん中まで行くと、あたりは真っ暗。鼻をつままれてもわからない闇とはこのようなことを言うのでしょう。こんな闇は東京の夜では経験できないのではないでしょうか。夜は暗いのが自然だと、当たり前のことを改めて思わされました。こんなに暗いからこそ美しい星空も見えるのです。
 空には満天の星。天の川がちゃんと川に見えるぐらいはっきりわかります。一つ一つの星も大きく明るく、くっきり見えるので、びっくりしてしまいました。東京ではとってもこうは見えません。私はあまり天文には詳しくは有りませんが、この辺に住んだら星に興味を持ちたくなりそうだと思いました。
 また夜歩いていて娘は蛍を見た、と言うのです。Yさんに尋ねると、「蛍はいるよ。」こともなげに答えてくれました。
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17    茅ヶ岳登山。
 私達親子三人の生活パターンにも、ちょっとした変化も有りました。ある時は、半日がかりで清里方面へドライブに行きました。ある時は夕方増富へドライブしたこともありました。またある時は、一日がかりで茅ヶ岳登山をしました。
 茅ヶ岳は、明野村、須玉町、韮崎市にまたがる、甲府市北方に聳える山です。ちょっと見ると八ヶ岳に良く似ており、しかも八ヶ岳が見えない日にも見えていることが多く、ニセ八ツと呼ばれています。「日本百名山」の著者である、深田久弥氏がこの山に登山中に亡くなったことでも知られています。
 私達は八月のある日曜日、ちょうどこの日は、アマチュア無線仲間のフィールド・デー(各自無線機を常置場所から移動させて交信し交信地の数などを競うコンテストの日)でしたので、無線機を持って登りました。山の頂上から電波を出せば、遠くまで電波が飛ぶだろうと考えたからです。御岳街道の大明神まで車で入り、深田久弥の碑を見て、女岩経由で山頂に達しました。途中は藪こぎも有り、かなりの急傾斜もあり、ちょっとつらい場所も有りましたが、二時間程でつきました。眼下には明野村、遠くは富士山、南アルプス、八ヶ岳、奥秩父の山々、間近に隣の金ヶ岳、と、絶好の眺望が望めました。
 お弁当を食べてから、無線を始めました。でも東京と違ってオンエアしている局が少なく、必死でCQ(どなたか応答願います。)と叫び続けました。あとで考えてみれば、それもそのはず、明野村には東大宇宙線観測所、野辺山には宇宙電波観測所が有ることからもわかるように、八ヶ岳の東、奥秩父の西の谷は、地上の外部電波が非常に少ない地帯なのでした。
 そうこうするうちに主人が「まずい。雷雲が来る。早く降りよう。」と言います。日頃から山の天気に詳しい主人のご託宣ですから、一も二も無く降りることにしました。
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18    H氏のこと
 ところでYさん宅をしばしば訪れるお客がいました。何か用があって来ているとは思えません。長時間入り浸っている、という感じで、それも毎日の様に来ているように思えました。そのうちYさんがその人を二階に連れてきました。Hさんと言って、40歳代半ばぐらい、この村の小笠原で不動産業を営んでいる人だそうです。「こんなへんぴなところで不動産業だなんて、果たして仕事はあるのかしら。だから暇そうに毎日Yさんちに入り浸っているのでしょう。」と、一人で納得していました。
 Hさんは元々村内小笠原の人で、ご両親と奥さんと子供さんと住んでいます。東京の大学を出て、東京で就職し、しばらく東京で暮らしました。奥さんもそこで結婚したのですが、事情が有って郷里に戻り、不動産業を始めたのだそうです。
 彼は明野村の現状と将来について、いろいろと話して下さり、とても参考になりました。時には不動産屋特有のホラともユメともつかない話もじっていましたが、だいたいこの人はまじめで誠実な人だと感じられました。
 明野村が日照時間日本一の村だというのも、この人から初めて聞きました。村の中学校の気象観測データが気象庁からのお墨付きを貰ったのだそうです。明野村は気候と言い、風光と言い、清里なんかに負けない保養地の素質が有るが、今まで開発されなかったのは水が無かったからである。別荘族に水を分けることに、村当局が難色を示していたからである。しかし何年か後には塩川ダムが出来るから、この問題は解決されるであろう。現在でも開発の計画や、大学の誘致の計画がある。しかし村の人たちは清里のような観光地にはしたくないと思っているし、ならないであろう。それは、村内に東大宇宙線観測所が有り、村内のあちこちに、観測地点が有るので、やたらな開発はできないのだ、などということなどを知ることが出来ました。
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19    別荘を買うことについて、私達の考え。
 私達は少し前から山梨県の峡北地方に主人の絵の基地になる、小屋(別荘とか、アトリエとか言えるような立派なものでなく)みたいなものがほしいと思っていました。そしてその小屋を、今、手狭になっている東京の家の物置として使おうと思っていました。東京で今より広い家に引っ越すのはとてつもなく高いものになります。今の家は交通の便も、環境もとても良いので、そのまま住んで、家の中の不要不急のものや、主人の絵などをしまう場所を手に入れよう。そしてそれが主人のスケッチ旅行の基地になれば一石二鳥。こんな風に考えて、いろいろ構想を巡らせていました。甲斐小泉、長坂、日野春あたりを候補地にして、地図を買い、実際に下見に言ったことも有りました。
 私達が何となく描いていた構想は、東京から二時間か、三時間で行ける、交通の便の良いところ。土地はそんなに広くなくて良い、50坪程度。家はワンルームにキッチン、バス、トイレそれに納戸が有ればよい。そんな程度のものでした。お金も無いことだし、そのくらいがせいぜい、と思っていました。
 大体ローンこそ無いものの、貯蓄を心がけたこともなく、ボーナスが出ればスキーだ、海外旅行だと気前よく使い、東京荻窪の高い借家料を払い、「アリとキリギリスにたとえればうちはキリギリスだね。」と自認していました。まじめに通帳の残高を調べたことも有りませんでした。
 先日のFさんの話だと、「明野は土地一坪が一万円」と言うことだったので、「それでは我々にも手の出る場所が有るかしら。」と少し期待していたのです。荻窪では当時一坪200万円でした。
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20    別荘を勧められる
 H氏がある日とうとう本音を出して、「別荘地を買いませんか。」と勧めにかかりました。「曇りで写生の出来ない日で結構です。見るだけ見ませんか。」私達は心の中では渡りに舟、と思いましたが、何食わぬ顔をして「では、参考までに見るだけ見せて貰いましょうか。」などと言って、案内して貰いました。
 「絵描きさんならここなどうってつけだと思います。」と最初に連れて行かれたのは、県道から上の一本松の近くの、本道からしばらくあぜ道の様な農道を入った草地でした。水道も電気もこれから引くのだそうです。見晴らしが良い、と言っていましたが、その日は曇っていて山などはみえません。
 次に行ったのは、やはり一本松の県道の上、舗装された農道の側の桑畑でした。「この一角は、別荘地として売り出されているのです。」と言っていましたが、今は何もない、ただの桑畑でした。でもこの二つの物件は、あまり乗り気になれるものでは有りませんでした。
 「次は、」とH氏が、今度は自分が気乗りしない様子で切り出したのは、中古の住宅だというのです。「これはちょっと高いので。でもまあ一応お見せしましょう。」 と言うので案内して貰いました。これも県道の少し上、永井と言うところの、松林を背負った、まだ新しい感じの平屋の住宅で、南側は広々とした芝生の庭でした。「中は見られるのですか。」と聞きましたが、今、持ち主がいないので見られない、とのこと。敷地は200坪、建物は30坪とのことですが、中の様子は分かりません。ぐるっと家の周りを回ってそのまま帰ってきました。処がYさん宅へ戻ると、三人が三人とも言いました。
「あの家を買わないか。」
「あの家を買いたいわ。」
「あの家、良いねえ。」
 
  三人の気持ちがこれほどピッタリ合ったのも珍しいことでした。H氏に連絡して値段を聞きました。2000万円だそうです。主人は言いました。「それは高い。うちにはとってもそんなお金はない。」するとH氏は言うのです。「では持ち主に掛け合って、まけてもらえるか聞いてあげましょう。」
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