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「なぜ、明野に住んだの?」 と良く聞かれます。私達の場合、行き当たりばったりにそうなってしまったのです。どうしてそうなったか、という、一口で説明出来ない事情を綴った文です
この文は私達が明野に家を買った当時書き留めて置いたものです。今は北杜市明野町ですが、その当時は「明野村」でした。ホームページ上で発表した2007年とは大きく諸事情が変わっていることをお断りします。
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22 その家を買うことに決める。 | ||||
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三人ともその家が気に入ったことは間違いないのですが、問題は値段の折り合いがつくか、ということでした。
大体私はうちに当時いくら貯金があるか、良く分かっていませんでした。「あちこちかき集めれば500万ぐらいはあるだろう。家を買うならそれを頭金にして、銀行から借りればいい。」ぐらいにしか考えていませんでした。返済のことを考えれば1000万ぐらいでなければ無理なのではないか。2000万はちょっときついな。それでも諦められないほど、その家が気に入っていました。
H氏から返事が来ました。「1600万円で結構です。他は一切要りません。」相手の方も相当乗り気で、誠意を示して下さった、と感じました。「それでは買いましょう。」と即答しました。全然お金の当てはなかったのですが・・・。
そのあと、私達は東京での所用を片づけるため一時東京に戻りました。家でとにかく家中の貯金通帳や預金証書を洗いざらいかき集めました。私が結婚前から郵便局に3万。5万、と貯金していた物も全部出してみました。すると意外にも小さい物の合計で500万ぐらいになるのです。10年以上経っているのもあるので、利息を入れるとかなりの額になるわけです。
主人の方の銀行預金もあちこちに散らばっているのを集めると予想以上に有りそうです。まずはホッとしました。取りあえず手金の200万円をおろして明野に戻りました。
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23 家の中を見る | ||||
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話が決まって手金を打つときになって、初めて持ち主のMさんと会うことになりました。家の中にはいるのもその日が初めてでした。外から見ただけで家を買うなんて、考えてみれば無茶苦茶な話だったかも知れません。
私達が着いたとき、Mさんは一人で戸や窓を開けて待っていて下さいました。ワクワクしながら家の中に入って驚きました。まるで私達の注文を知っていて建てられた家の様だったのです。
間取りは、南に面した西端の玄関から入って一番奥、家の東端に14畳の洋間があり、これは主人のアトリエにピッタリでした。玄関を入ると家の真ん中に東西に4尺幅の広い廊下が通っているのが印象的でした。そして部屋は総て廊下の南側に一列に並んでいます。玄関の隣が10畳のLDK、次が8畳の和室、次が6畳の和室、一番奥が14畳の洋室です。トイレ、洗面所、風呂、納戸が廊下の北側に並んでいます。家の外側には南面に濡れ縁が有り、全部の部屋を連結しています。どの部屋も庭から直接入れる構造でした。総ての部屋は独立しておりながら、便利に接続しています。どの部屋も日当たりも風通しも抜群です。
設備の面でも私達の今の東京の家より数倍便利で近代的に出来ていました。洋式の水洗トイレ、暖房便座。台所も洗面所も風呂もいつでも蛇口からお湯が出る給湯設備、台所は最新システムキッチン、ガスコンロ付き、風呂はゆったりしたステンレスのバスタブ、シャワーもいつでも使えます。電気系統も良く配慮され、コンセントも各部屋にたっぷりあります。掘り炬燵は電気で、炬燵内部にコンセントが有る、照明器具もひとつひとつ洒落ている、という具合です。
内部はシンプルな仕上げですが、しっかりと建てられているのも好ましく思いました。
庭は広々とした芝生で、花壇には季節の花が咲き乱れ、南側が道路で、境界は低いドウダンの生け垣で、とても開放的です。庭の中には車2台は置ける駐車スペースが有ります。道路の南側は空き地で、雑草が生え、その向こうの田圃の彼方に富士山が見えるとのことでした。庭の東側にはイチイの木が、西側にはアジサイがずらっと植えられていました。
私達は以前はアトリエ兼物置兼スケッチの基地を手に入れようと考えていましたが、それにはちょっともったいなすぎる家でした。この家を見ているうちに私達は将来ここに住んでも良いかな、と思うようになりました。
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24 M氏のこと。 | ||||
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この家の持ち主のMさんとは、手金を打つとき初めてお会いしました。私達よりだいぶ早くいらして、庭の手入れをしておられたようでした。背の高い痩せた品の良い紳士でした。髪には白い物が混じり、50歳代半ばぐらいでしょうか、やさしい物腰の方でした。
Mさんは5年前までは東京の日野に住んでおられ、お仕事は会計士だそうです。2人のお嬢さんがおられ、お嬢さんの喘息を治すために、ここに家を建てて移られたのだと、うわさで聞いていました。今、上のお嬢さんが大学1年、下のお嬢さんが高校1年です。上のお嬢さんが今年東京の国際基督教大学に入学されたと聞いて驚きました。私の母校だったのです。そのことを言うと、Mさんもその偶然に驚いたり喜んだりして下さいました。下のお嬢さんは今年甲府市内の高校に入学されたので、一家で甲府に移ることにして、この家を売ることにしたのだそうです。
自分で土地を選び、自分で設計して建てたこの家に、とても愛着を持っておられるようでした。家の内部や庭の手入れの仕方を見ても、住んでいた人の人柄やセンスが偲ばれるような気がしました。良い方から家を譲って頂いた、と思いました。
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25 金策 | ||||
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200万円の手金を売って、本契約は韮崎の税理士のFさんの事務所で行うことになり、それからが本格的な金策の始まりでした。
主人一人で東京に戻り、郵便局や銀行を片っ端から回って手持ちの貯金、預金をすっかり払い戻して、山梨中央銀行の口座に入れました。これが丸2日かかりました。そして足りない分は家を担保にしてローンを組もうと思っていたのですが、何と、手持ちのお金が利息を含めると1400万円を越えてしまったのです。私は自分たちがそんなお金持ちだとはそのときまで全然知りませんでした。なんだか狐につままれたような不思議な気持ちでした。月々安くない家賃を払い、スキーだ、海外旅行だ、絵の道具だ、個展だ、とあまり気にせず趣味にお金をつぎ込んでいました。答えは多分私達が家のローンも車のローンもなく、スキーや海外旅行に行くことを楽しみに、普段の生活を質素にやってきたせいではないかと思います。古い道具でも手入れをして修理して長く使っています。
とにかく主人は1400万円を小切手にして意気揚々と明野へ戻ってきました。思ってもいなかった贅沢な家が、一銭の借金もなしに私達の物になったのでした。
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26 中古住宅を買ったメリット | ||||
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未整地の別荘用地を買ったとしたら、それからの手続き、造成工事、電気や水道の工事、そして家の工事と、大変なことがいっぱいあったでしょうに、私達はその一切を抜きにして、とても住み心地の良い家を手に入れてしまいました。忙しい私達にとって本当に有り難いことでした。
そして、この家の引き渡し条件は「居抜き」ということでした。この言葉は私達はそのとき初めて知ったのですが、今あるそのままの状態で引き渡すことだそうです。照明器具やカーテン類は総てそのまま使える状態でした。そのほかにも松本さんはずいぶんいろいろな物を置いていって下さいました。ブルーフレームの石油コンロ一台、掛け時計、洋服ダンス二棹、長座卓、ボンベ式コンロとボンベ段ボール二箱分(約100個)、庭の芝刈り機、水撒き用のリール式の長いホース、バケツ、ホウキ、細かく言えばスリッパ、サンダル、タオル、雑巾など、その後ずっと重宝して使わせていただきました。
それに庭木や草花だけでも、自分で植えるとなると大変です。前に書いた、ドウダン、イチイ、アジサイの他にも、梅、サクランボ、イチジク、バラ、萩などの庭木が植えられ、ペチュニア、マリーゴールドが咲き乱れていました。ホタルブクロ、月見草、ほおずきも有りました。
私は中古住宅を買って、とても良かったと思いました。
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27 Mさんからのアドバイス | ||||
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Mさんは職業柄、今回の取引には、いろいろなアドバイスをして下さいました。私達は不動産を買うのは初めてでしたし、あまり関心を持ったことが無かったので、知らないことだらけで大変心強く思いました。
支払いのお金はどこからどのようにして調達したかという資料を明確にして、しばらく保存しておくことを、具体的に教えて下さいました。登記に際して名義は夫婦二人にした方がよい、ということも教えて頂きました。固定資産税や火災保険もキチンと引継をして下さいました。
それから、この土地に住むについてのアドバイスもして下さいました。この土地には「組」というものが有るからその「組」に入れて貰った方がよい、ということ等です。松本さんも元々都会の人ですが、ここでは「組」にも入り、地域や学校の役員も積極的にやっておられたそうです。都会育ちの私には「組」というものがピンと来ないのですが、主人は終戦後、山梨県の峡南地方に住んでいましたので、そういうことを知っていたので助かりました。田舎には田舎の暮らし方が有る。「郷に入っては郷に従え。」という方針で行くことにしました。田舎に住むと決めたからには、土地の人と調和してこそ、人間らしい生活が出来ると思います。
今までまさに「都会的人間関係(隣は何をする人ぞ、的、無関心無接触)」の中で生活してきた私でしたが、むしろ違う環境に入っていくことに興味を覚えました。
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28 主人の「田舎」 | ||||
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主人は東京生まれですが、父親の仕事(軍の気象隊)の関係で朝鮮にいて終戦を迎えました。終戦の日から日本にたどり着くまでも、大変な苦労をしたそうですが、日本に帰ってからも、落ち着き先を見つけるまでが大変だったそうです。父方の祖父の家のある山梨県中富町に住み着いたのは日本に帰ってから一年ほどたった小学6年生のときでした。 父親は追放にあい、田畑もすべてよその人が使っていて、当時は毎日食べるものにも事欠く、どん底の生活だったそうです。当時は排他的で貧しかったその町で、主人は「朝鮮人、朝鮮人」といっていじめられたそうです。
地元の中学、高校を出て、東京の大学に入り、東京で就職したのですが、どうも中富町は「ふるさと」という感じが持てない、とかねてから言っていました。
都会育ちで「奥様」だった主人の母は、大変な苦労の末、百姓仕事を覚え、友達も出来、土地になじみ、今ではどっしりとそこに根を下ろしています。子供達を都会に送り出し、20数年前に夫を亡くしてからも、充実した一人暮らしを楽しみながら、先祖から受け継いだ家を守っています。
主人も長男なので、いずれは田舎の家を継ぐことになるだろうと、東京では家を買わず、借家住まいでやってきました。(買えない、という事情もあったのですが・・・)でも 明野村にこの家を得て、いろいろな意味でとても良かったと思えるのです。
まず、明野には主人にとって中富のような感情的にしっくりしない思い出が無い。明野は中富に比べて谷が広く、山がよく見え、絵を描くのによい場所がたくさんある。一人暮らしの母は心配ではあるが、明野から中富まで車で一時間の距離なので、何か、というときには直ぐ駆けつけられる。中富の家は現在独身で東京で働いている主人の妹の引退先に提供できるし、母も実の娘と同居する方が良いのではないか。などの利点がありました。
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29 母の意見。 | ||||
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明野ついての母の意見を聞いてみました。同じ県内ですから人の行き来もあり、噂も聞いているはずです。母は「明野は良いところだよ。」と言ってくれました。それから「明野は洪水が無いから良いよ。」と言いました。実際母は中富の家では直ぐ側を流れる富士川の氾濫で度々洪水の被害を受け、苦い思いをしているのです。
「開運橋(母の家の近くの富士川に架かっている橋)からは茅ヶ岳が見えるんだよ。」と。明野をごく身近に感じていることがわかり、安心しました。
実際にその後この家を訪問して、とても気に入ってくれました。「明野は空が広いね。」と。
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30 Yさん宅から引っ越す | ||||
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8月半ばに正式の契約をしてから、私達はYさん宅を引き払って、こちらに移ることにしました。Yさんとの約束の日数はまだ残っていたのですが、Yさんも「そのほうが良い。」と、賛成して下さったのです。
何しろ、貯金を全部出してみたら、借金もせずにこの家が買えた上、少しお金がのこったという、思いも掛けぬ幸運に、私達はウキウキしていました。
布団4組、台所用具、電気製品(冷蔵庫、掃除機、洗濯機、電気釜、トースター)、椅子、テーブル、食器棚、洗面用具等をいっぺんに買い込みました。私達は新婚生活を始める若夫婦の様な気分でした。家の掃除や庭の手入れに幸せな時間を過ごしました。
こうして私達の明野の家での暮らしが始まりました。
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