明野の生活
ひょんな事から明野に家を手に入れて、明野での生活が始まりました。でも事は思ったようには進まなかったのです


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1   明野に通う。
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明野に家を手に入れてから、しばらくは明野の家を物置兼、写生の基地として使っていました。明野に来るのはせいぜい月1回ぐらい。3ヶ月もご無沙汰することも有りました。主人も私も仕事がありましたから、忙しくて疲れてしまっていることもありました。他の用事があったり、他のところへ遊びに行っていることもありました。「別荘」なんて、持ってもそういうものです。そんなに不在の期間が長引いたら、次に行ったときには埃がたまって掃除が大変だろうと思われるでしょう。でも、この家はその心配はありませんでした。アルミサッシで気密がよいということに加えて、庭が芝生でしたから、埃になりにくいという利点がありました。こういう状態で3年が過ぎました。

2   改築・その1. リビング・ダイニング・キッチンを応接間に
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私達はこの家には将来は定住しても良い、と思っていましたので、家を買って間もなく改築することにしました。この家は基本的には大変気に入っていましたが、細かい点では使いにくいところもありました。
 まず、玄関横のLDKでした。この台所は南と西に面するL字型で、コンロは南側でした。夏に南側の窓を開けるとそよそよと南風が入ってくるのは良いのですが、コンロの炎が不安定になって、困りました。それに、前の住人の奥様の希望で、コンロはカセットコンロのみを使っておられました。私は、台所はやはり北側が良いと思いましたし、コンロはプロパンガスを使いたいと思いました。
 居間部分は掘り炬燵になっていました。私達はこの部屋は洋風の応接間として使い、グランドピアノを置きたいと思いました。そこで、台所部分は全部取り払い、土台を強化して、フロアを全部張り替えることにしました。
 

3   改築・その2.ダイニング・キッチンを新設
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家の北側に約4畳半のダイニング・キッチンを新設する事にしました。そして、台所横の北側に裏口を作りたいと思いました。東京の荻窪の家の台所が、主婦一人で使う台所としては手頃で気に入っていましたので、それをモデルにしました。一間半の間に冷蔵庫、流し台、調理台、コンロを並べたI字型です。その前に食事用のテーブルを置いて、主婦が流し台を背にして座る、と言う構造です。出窓は大きくして、ものも置けるようにしました。

4   改築・その3.アトリエを増築
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玄関から見て一番奥、東側の約13畳の洋室を約18畳に広げて、主人のアトリエ兼作業室にする事にしました。北側には高い窓、流し台も付けました。

5   瓦を葺き替える
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冬を過ぎて、春先に明野の家へ来てみると、庭に変なものが散らばっているのを見つけました。黒くて、陶器のかけらのようなものです。近所の大工さんによると、これは屋根の瓦に水が浸みて、冬にそれが凍って瓦がはぜたものだそうです。この家を建てた人は暖かい地方の瓦を買って屋根を葺いたから、このようなことが起きるので、寒い、この地方に合った瓦を使えばこんな事は起こらないのだそうです。今、屋根にのっている瓦はこんな事が繰り返されて、だいぶ薄くなっているから、早晩雨漏りがするようになるだろう、とのことでした。そこで私達は改築を機会に瓦を全部寒冷地用のものに取り替えることにしました。

6   大工さんを決める
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工事をするに当たって、どの大工さんに頼むかが問題でした。知らない土地で、知った業者もなく、相談する人もいません。しかも留守中に工事をしてもらうわけですから、よほど信用できる人でなければなりません。ところが都合の良いことに、同じ「組」にとても面倒見の良い大工さんがいて、私達がこの家を買って直ぐにお知り合いになり、この土地のことなどをいろいろ教えて下さっていたので、この人に頼むことにしました。これからも家のメンテナンスを頼むこともあろうから、近い人が良かろう、と思ったのでした。それに近くの人だと向こうも手抜きとか、ふっかけるとか、出来ないだろう、という下心もありました。大工としての腕前も実績も知らないまま決めたので、賭けみたいなものでした。でもこの判断は当たりで、しっかりした工事を安くやってもらうことができました。私達の留守の間に工事をしてもらったのですが、不愉快なトラブル一つなく、安心して任せることができ、幸運だったと思っています。

7   大工さんの抵抗
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大工さんと意見の一致しないことが一つありました。私は台所横、家の北側に裏口を作りたいと思いましたが、これが大工さんの反対にあったのです。
 この辺は八ヶ岳おろしが厳しいので、家の北側に出入り口を付ける人は誰もいないというのです。そう思って見てみると古い家は確かに玄関はすべて南側です。道路が北側の家でも、家の横をぐるっと回って南側から入るようになっています。北側の窓も小さく、少ないです。でもこれでは不便な点も多かろうと思いました。でも、大工さんは北側の入り口は、冬の風の強い日は家中に風がはいって、使い物にならない、 と言って、断固反対するのです。まるで「そんな変な家を造ったら、自分の恥だ。」とでも思っているようでした。
 そこで私は入り口の内側に、靴脱ぎと台所の間にもう一つドアを付けて、ダブル構造にして風を防ぐ、という案をだしました。とうとう大工さんも渋々承知してくれました。
 
 その後建つ家を見ていると、北側入り口の家も、北側の窓の多い家も増えています。気密性が向上したことや、構造の工夫がされた為だとおもいます。

8   夫の退職
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 家を買ってから3年後、夫が55歳、私が47歳の時でした。夫の勤務先で転任の話が持ち上がりました。夫は現任校で3年目でした。従来の決まりでは、50歳以上では本人が望まない限り転任は無いはずでした。53歳で現任校に着任したとき、「これで定年まで転任は無い。」と思っていました。しかし、美術の授業時間数が削減になったため過員になってしまったのです。現在二人いる美術教員のうちどちらかが出なければならなくなったのです。本来夫がでる事は無いはずでした。しかしもう一人の方が転任できない何らかの事情があったため、夫の方に「転任してもらえないだろうか。」という打診がありました。
 いろいろ悩んだ末、夫は退職を決意しました。じっくり絵も描きたいが、今の学校現場にはその環境もない。今また新しい学校へ変わるとなると、精神的、肉体的負担は大きい。体をこわす恐れもありました。
 私も賛成しました。うちにはローンもないし、私も勤めているので経済的には何とかなるだろうと思いました。何より夫の健康状態が心配でした。ストレスからくる胃潰瘍を抱えていたのです。

9   夫の自動車教習所通い
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 こうして夫は55歳で早期退職しました。明野に住んで絵に専念出来ると、張り切っていました。退職して真っ先にやったのは車の免許を取ることでした。明野での生活に車の免許は欠かせなかったからです。武蔵境の教習所に通いました。奇しくもそこは私が25年前学生時代に免許を取った教習所でした。教習所の方では55歳の男が免許を取りに来た、と言うので、「これは相当世話がやけるぞ。」と思ったようです。しかし案に相違して、すべての教習も路上も仮免も本免も、一発でパスして、20歳代の人の料金で免許を取ってしまいました。教習所の先生には、「昔やってたでしょう。」と直ぐばれてしまったそうです。
 夫は20歳代から30歳代半ばにかけて散々250ccのバイクを乗り回し、結婚を機に免許を切らした、というキャリアのなせる技でした。そして私が40歳を過ぎてから運転するようになってからは、いつも助手席に座って、教習所の教官さながらに私の運転をこきおろしていたのも伊達ではなかったという証明になりました。

10   夫のパチンコ屋通い
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 次にやったのはパチンコ屋通いでした。かねてから勤め帰りに気分転換に良くパチンコをしていましたが、なかなかの腕前でした。本人は「収支はトントン。遊んだ分だけ儲け。」と申しておりましたが、大幅に損することはありませんでした。
 
 「いつか時間にとらわれず、精一杯、腹一杯パチンコがしてみたい。」と言っていましたが、退職して時間がたっぷり持てたためこれを実行してみたいというのです。こうして、暇さえあればパチンコ屋に入り浸ることになりました。毎日のように朝から長時間居座って、しょっちゅう出玉の大箱を積み上げていたものですから、そのうちパチプロの人にも「仲間」と認められ、時には「今日はあの台が出るよ。」等と、情報ももらえるようになったとのことです。60歳前の男が朝から仕事もせずに入り浸っているものですから、店員からは「ダンナ、お仕事の方は良いんですか。」と心配してもらったそうです。その間も特別に大損はせず、時にはかなり儲かることもあって、家計に差し支えることはありませんでした。そして1〜2年で「もう気が済んだ。」と、卒業してしまい、その後パチンコは全くやりませんでした。



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