明野の生活
ひょんな事から明野に家を手に入れて、明野での生活が始まりました。でも事は思ったようには進まなかったのです


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11   絵描きの単身赴任
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 夫は教習所とパチンコ屋を卒業すると明野で一人で暮らしている時間が長くなりました。中古の軽トラックを買って乗り回し、写生に出かけたり、アトリエで描いていました。食事は自分で作っていました。高校時代から山岳部に入っていましたので、山では自分で食事を作るのは当たり前でした。
 
 合間に夫は家の改造や工作にいそしんでいました。詳しいことは別の機会に書きたいと思いますが、代表作が暖炉作りでした。
 
 こんな事をしていると特に用が無い限り東京に来ることは少なくなりました。私は週末になると一人で車を運転して明野に通いました。「夫は絵描きの単身赴任ですから。」と。夫はその日の夕食を作って待っていてくれました。煮物、炒め物はもちろん、漬け物まで作っていました。食べ終わるまでは私はお客様でした。その後は私が主婦になりました。

12   私の明野暮らしへの心づもり
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 何時とは決めていませんでしたが、いずれは私も明野へ引っ越すのは時間の問題でした。私が明野に住んだら、私は何をしたら良いのかと考えました。夫には絵を描くという仕事がある。私は主婦業だけだとしたら、退屈して、いやになってしまうかも知れません。楽しく、生き生きと暮らすために計画を立て、準備を進めました。
 1.主婦業
 私は未だかつて専業主婦というものを一度もやったことがありませんでした。いつも主婦業は片手間にやって、手抜きだらけでしたので、少し手間暇をかけて主婦業をやってみよう、と思いました。
 2.夫の母の介護
 夫の母は山梨県峡南地方で一人暮らしでしたが、数年前にガンを宣告されて手術を受け、その後も入退院を繰り返していました。明野に住めば車で1時間の母の元へ度々通ってお世話できると思いました。
 3.茶道
 若い頃10年ぐらいやった茶道をもう一度やり直してみよう、と思いました。茶道を通じてお友達も出来るでしょう。そこで退職前から再び茶道を習い始めました。道具も少しずつ買い始めました。明野の家なら炉も切れる、と思い、電気炉や茶釜も買いました。
 4.自然観察
 明野は自然の豊かなところですから、少し深く自然観察をして、記録なども纏めたいと思いました。かねてから二人で「日本野鳥の会」に入っていましたが、会費を払うだけの会員で、活動に参加したことはありませんでした。これを機会に観察会等にも参加しようと思いました。
 
 植物も、山登りの時に高山植物については学んだのですが、身近な植物についても学びたいと思いました。
 5.新聞、雑誌への投稿
 書くことは嫌いでは無かったので、何か明野の暮らしの中で感じたことがあれば投稿するのも良いかな、と思いました。
 6.友達との交流
 今までも友達は割と多かったのですが、忙しさにかまけて、手紙など書くことはあまりありませんでした。時間があればマメに手紙を書こう、そして明野にも遊びに来てもらおう、と思いました。
 7.旅行、スキー、山登り、ドライブ
 此の4つは夫婦共通の趣味でしたから、これからは時間の余裕と地の利を生かしてもっと出来ると思いました。
 8.ピアノ、読書、映画
 時間の余裕があれば一人で出来る趣味にも取り組もうと思いました。
 9.サークル活動
 今まで東京で、「町歩きの会」に入っていましたので、月一回の活動には上京して、これまで通り参加しようと思いました。
 10.その他
 地元の生涯学習講座や、趣味のサークルに参加したりボランティア活動をするのも、友達作りのきっかけになるかと思いました。
 これだけの項目を挙げて、私は満足していました。「これで私の田舎暮らしは大丈夫。」と。
 この中には野菜作りなど、いわゆる農業に関するものは一つもありませんでした。私の意識の中に無かったのです。
 私の明野での生活が最初に意図したものとはかなり違ったものになるとは、予想もしていませんでした。

13   3年目の転機
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 私と娘が東京に住み、私は仕事、娘は受験生、夫は主に明野で暮らす、という生活が3年続きました。
 3年目に再び転機が訪れました。夫58歳、私50歳、娘21歳の時です。
 山梨県の峡南地方で一人暮らしをしていた夫の母は、かねてからガンを宣告され、手術を受け、入退院を繰り返していました。看護は主として夫の妹が引き受けてくれていましたが、義妹も仕事を持つ身ですので、何時までも一人に任せては置けません。そろそろ長男の嫁である私もその役目の一端を担わなければと思っていました。
 それから、ちょっと回り道をした娘が21歳を目前にして大学に合格し、そろそろ一人暮らしをさせても良いか、という状況になっていました。
 それに、夫の「単身赴任」も3年になり、何時までも不自由な思いをさせたくない、という気持ちもありました。
 私はこれを機会に退職することにしました。少し早いという気もしましたが、明野で新しい生活を始めるのであれば、早いほうが良い、とも思ったのです。
 私が50歳の3月退職して、荻窪の家を片づけ、私は明野へ、娘は大学のお膝元の相模原へ同時に引っ越したのでした。

14   明野に暮らし始める
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 こうして私は明野に定住しました。かねてからの私の計画に従って、私の明野での生活は順調に滑り出しました。
 夫の母の元へは、容態が安定しているときは週一回位のペースで通いました。入院となれば付き添いました。いつでも行ける、というのは気の休まる事でした。
 私が定住してからは地域の「組」にも正式にはいりました。それまでは「見習い」ということにして、差し支えないときだけ参加させてもらっていたのです。翌年は「組長」を引き受け、夫婦共々、地域にとけ込もうとつとめました。

15   三木先生との出会い
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 ところが、明野に住んでから1年半程経った1994年の秋から、私の思ってもいなかった方向に、事が進み出したのです。きっかけは村の生涯学習講座「ふれあい塾」に、参加したことでした。
 この日の講演の講師は三木賢(まさる)先生。演題は「欧州農業事情調査団報告」というようなものだったと思います。三木先生はその前年の1993年に、もう一人の人と二人で、村の代表に選ばれ、11日間の欧州農業事情調査団に」参加され、この日はその報告会だということでした。
 三木先生という人について当時私が知っていたこととは「明野村在住の元農業高校の先生。退職して明野で花作りをしている人。ここ数年村内に大規模なヒマワリ畑を作る活動の中心になって、話題を集めている人。」という程度のものでした。
 私は夫と二人でこの講演会を聞きに行きました。私達もヨーロッパには何回か行っていますが、農業という視点で見たことは無いので興味を持ったのです。
 最初、三木先生は確かに演題に沿って話そうと努めておられましたが、どう考えてもお義理に話している、という感じでした。聞いていてもあまり面白くありません。ところがそのうちこの演題を放り出して、明野村でのヒマワリ栽培のほうへ話が脱線してしまいました。この話になると俄然熱がこもって、楽しそうになるのです。聞いていてもとても楽しくなりました。
 「明野村は日照時間日本一の村なので、このイメージに合う花はヒマワリである。そう思って自分は広域農道沿いの畑を借りて仲間とヒマワリ畑を作ってみた。すると評判を聞きつけてヒマワリを見に来る人がでてきた。カメラマンも来た。翌年もヒマワリを作ったら、更に多くの人が来たので、近くで花や農産物を売ったら面白いように良く売れた。」というような話を得意そうに話しておられました。
 私はその夏そのヒマワリ畑を見ていました。友達も何人も連れていってあげて、とても喜ばれました。「この人がそれをやった人なのか。」と興味がわきました。それにしても人手不足で、三木先生がなんでも自分でやって、奮闘しておられるようなのです。私は三木先生のお手伝いをしたくなりました。
 翌日お宅に電話して「ヒマワリ畑のお手伝いをしたい。」と申し出ました。すると先生は「それではこの会に入って下さい。」と言われ、私は「明野村花卉生産者連絡協議会」という会の会員にさせられてしまったのです。 

16   明野村花卉生産者連絡協議会とは
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 私は何も知らず、「ヒマワリ畑の種まきや草取り等のお手伝いが出来たら。」と思って入会したのですが、後から知ったのは以下のようなことでした。
 この会は三木先生が中心となり、明野村の補助を受けて1994年に立ち上げた会で、明野村で花の生産、販売(出荷)をしている人や、これから生産をしたいと思っている人から、単なる花の愛好者や、ただ三木先生の応援をしようという人まで、雑多な人々の集まりで、当時50人以上の会員がいたように思います。三木先生はこれらの人々をまとめて花作りやドライフラワー作りを指導し、明野を花の一大産地にしよう、という夢をお持ちだったようでした。
 入会したといってもその年のヒマワリシーズンはとっくに過ぎていてその年は何の活動もなく、会員の皆さんと初めて会ったのはその年の忘年会の時でした。

17   アスター講習会
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 入会した翌年1995年3月にアスターという花の栽培講習会がありました。私も参加しました。この日は播種箱にアスターの種を蒔く実習でした。この時期にアスターを蒔くということは、育苗機(温度をかけて発芽させる装置)が無いと発芽させられません。会員も殆どが持っていませんでした。三木先生は、自分の育苗機で会員の分の播種箱を預かって発芽させて下さることになり、私も近所の I さんと一緒に一箱お願いすることになりました。
 私は大量の花を植える畑もありませんでしたから、苗が出来たら I さんに貰ってもらえばいいと考えていました。
 その場で先生がみんなに「僕が何から何までやるのは大変なので、誰か手伝ってくれないだろうか。」と、言われました。
 実際、先生は花作りから販売の指導、ヒマワリ畑の企画、実際の手入れ、役場との交渉、会運営の事務的な仕事一切、会員への連絡等々、殆ど一人でこなされていて多忙を極め、自分の家の畑は奥様に任せて飛び回っていらっしゃるような状態だったようです。
 私には時間もあるし事務的なことや雑用ならお手伝いできるかな、と思って「私で良ければ。」と申し出ました。他の方は皆、家の仕事が忙しく、申し出る人もいなかったとかで、私がその役を仰せつかることになりました。最初は先生にいわれたことをやる雑用係でしたが、やがて会の中に「庶務」という役を与えられて、いろいろな仕事を任せられるようになりました。

18   アスターの植え替え
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 アスターの講習会の後12日ほどで発芽も揃い、プラグトレイに移植することになりました。三木先生から発芽したばかりの苗を受け取り、I さんのお宅の炬燵で二人で向かい合って、ピンセットで一本一本プラグトレイに移す作業をしていました。うまくいけば800本位の苗が出来そうでした。プラグトレイに植えられた苗は、定植出来る大きさになるまでトンネルをして、育てることになっていました。私の分も I さんが預かって育ててくれることになりました。
 作業が終わる頃私は I さんにかねてから考えていたことを言いました。「うちにはこの苗を育てる畑も無いから、I さん,貰ってくれない?」 すると I さんは「畑ぐらい借りたら良いじゃない。私が探してあげるよ。」と言うのです。とりあえず I さんに任せて、その日は分かれました。

19   アスター枯れる
更新日時:
 その後 I さんから畑のことや、苗の育ち具合の連絡があるかと待っていましたが、何の音沙汰もありません。とうとう私から聞いてみました。すると I さんは困ったような顔をして、「実は水をやり忘れて苗は殆ど枯れてしまった。」と言うのです。私は何だかホッとしました。この年はアスター作りはしないですみました。

20   畑を紹介される
更新日時:
 畑のことはあんまり本気で当てにしてもいなかったので、殆ど忘れかけていた8月になって I さんが畑を見つけてきました。「持ち主から一応の了解を取ったから紹介してあげる。」と言うのです。まずは夫と二人でその畑を見に行きました。150坪くらいはありそうです。私は驚きました。こんな広い畑は私には手に余ると思ったのです。しかし夫は「このぐらいあれば家庭菜園ぐらいはできるな。このぐらいは必要だよ。」と、乗り気なのです。私はさんざん「無理だ。」と言い張ったのですが、とうとう夫に押し切られる形になりました。
 私は I さんに同行して貰い、地主さんのお宅に伺いました。ご主人は不在で、奥様にお会いしました。「詳しい取り決めは主人の都合の良い日に改めてやりましょう。取りあえず畑はお使い下さい。」と言うことでした。
 早速 I さんのご主人が雑草だらけだった畑にトラクターを入れて畑らしくして下さいました。そして I さんが、使っていない古い耕耘機を貸して下さることになりました。半信半疑の私をよそに、夫の方が張り切って畑整備を進めていきました。
 



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