フランスアルプス
エクランをたずねて
中高年夫婦の車と足でのエクラン探訪記。
 
この文は1995年に書いておいたものです。
ホームページで発表する2007年では
諸事情は異なることをご承知下さい。
 


 1    はじめに
更新日時:
1995年6月24日、日本は梅雨の真っ只中、霧雨に煙る成田から、私達はフランスヘと旅立ちました。フランスは主人にとっては6回目、私にとっては4回目になります。今回は約3週間、レンタカーを借りて、予定を確定せず気の向いた所で泊まり、気の向いた方に車を走らせるという、割りと自由な旅にしようと思っていました。大体の方角としてはパリを起点として、@ロワール河のお城巡り、Aカルカッソンヌから南仏、Bナポレオン街道を北上、Cフランス・アルプス(ドフィネ山群)見物の4つを決めていました。ロワールや南仏は以前にもちょっと行ったことがありましたが、フランス・アルプスの、ドフィネ地方を訪ねるのは今度が初めてです。私達にとってフランス・アルプスが今回の旅行の最大の楽しみでした。山歩きに備えて、私達のスーツケースには登山靴とキルティングのコートが詰められました。
 ロワールや南仏に関する情報は日本でも入手が容易ですし、以前行った時に現地で手に入れたものもありましたから、行きたい所が多すぎて、行ける所を運び出すのが難しいくらいでした。しかし、フランス・アルプスに関する情報は日本ではなかなか入手しにくく、情報集めも手探りの状態でした。「私達の目標を達するためにはどこに行ったら良いか。」「私達にはどこまで行けるのか。」これらを見付け出す所から始めなければなりませんでした。
 ロワールや南仏に関する本は多くの方が書いていらっしゃいますので、この小文はフランス・アルプス探訪を中心に書いてみました。私達がいかに楽しくフランス・アルプス地方を旅行して来たかというレポートであると同時に、これからこの地方へ行ってみたいと思う方には、まだ少ないフランス・アルプスの素人向けの旅行情報としても、役立てて頂ければ幸です。
 

 2    私達と日本の山
更新日時:
 私達夫婦はその時61才と52才、2人とも長年東京で教職についていましたが、数年前に退職しました。主人は美術が専門でずっと油絵を画いています。現在山梨県北部の明野村に住み、この地方の山々(八ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、南アルブスなど)を中心に画いています。私は絵はもっばら見るだけで、専門は英語でした。
 主人は中学、高校が山梨県で、高校時代から山岳部に所属し、以後ボツボツではありますが、ほとんど途切れることなく、関東、中部の山を歩いています。私は主人と結婚してから一緒にあちこちの山に登るようになりました。東京近郊や山梨、長野、群馬あたりが中心ですが、旅先でも手頃な山があると、ちょっと登ってみる、ちょっと見に行くという山好きです。
 主人は若いころは岩のぼりや冬山もやったようですが、結婚後は、自分でも体力の衰えを自覚した事と、私が、危険な事は止めるように頼んだ事等もあって、やっていません。夏山だけのファミリー登山者です。
 一時主人は体調をくずし、以前ほどの健脚ではありませんが、最近は少しずつ回復し、体力不足はキャリアでカバーして60才の年に、「還暦記念」と称して二人で初めて富士登山をしました。標準のコースタイムの1.5倍から2倍かかりましたが、マイペースで登りました。
 まあどこにでもいる山好き夫婦といったところで、特別なマニアであるとか、特別な技能やキャリアをもっているわけではありません。年のせいでとみに体力、脚力が落ちた、と嘆いているような二人です。何とか荷物を減らして楽をして山に登ろうという軟弱な根性です。でもやっぱり車やロープウェイ、ヘリコプターで山頂まで行ってしまうのは登山ではないという思いがあります。

 3    私達とヨーロッパ・アルプス
更新日時:
私達が初めてヨーロッパ・アルプスに接したのは25年前、結婚した年の夏、ツアーに加わってヨーロッパ旅行をした時です。一行のみんながパリで自由時間を過ごしている間、私達は二人だけで列車にのってスイスのユングフラウを見に行ったのです。ベルナーオーバーラントの山々は絵のように美しく、あの日泊まったベアテンベルグも快適で、人々は皆親切でした。その旅行中、ヴェニスからインスブルックヘ抜ける途中ではドロミテを通り、そのごつごつした岩山にまた違った迫力を覚えました。インスブルック周辺のチロルの山々も美しい村々と共に深く印象に残りました。シャモニーではエギュイーユ・ドゥ・ミディに登る予定があったのですが悪天候のため運休、涙をのみました。でもシャモニー周辺の針のような不思議な形の山々にも圧倒されました。
 主人はその後、私の行かなかった旅行で、エギュイーユ・ドゥ・ミディに登ってモンブランを見ています。
 今から13年前、家族でスキーのためツェルマットに行った時は、マッターホルンをはじめモンテ・ローザ他のヴァリス・アルプスの山々の眺めを堪能しました。
 5年前、ふたりでロマンチック街道を旅したときは、ドイツのババリア・アルプスの最高峰、ツークシュ・ピッツェヘロープウェーで登りました。
 これらはすべて、交通機関を使って登ったわけで、実際に歩いた訳ではありません。登山ではなくあくまでも観光でした。本当の「登山」は無理としても、ヨーロッパ・アルプスをこの足で歩いてみたい、その思いはユングフラウに行った当時からありました。

 4    私達とエクランとの出会い
更新日時:
 私達が「エクラン」という名前を知ったのは1982年、家族でツェルマットにスキーをしに行った時の事です。一応事前準備としてマッターホルンの初登頂者、ウインパーの著書「アルプス登はん記」を読んだのですが、その時、ウインパーはマッターホルン以外にも数々の初登頂を成し遂げていることを知りました。フランス第二の高峰エクランもそのひとつでした。
 フランス第一の高峰は言わずと知れたモンブランです。この山は麓の町や近くの山からもよく見え、また高さの割りには比較的登り易い山で、近代アルピニズムが花開いた初期の時期、1786年にはパルマとパカールにより初登頂が達成されています。1787年にはソシュールも登頂をはたしました。
 フランスには他にも高い山、美しい山はたくさんありますが、エクランの頂は麓の村からは見えにくいと言うことが私達の興味を引きました。長い間その存在は人に知られず、フランスで一番高い山はモン・ペルヴーだと思われていました。モン・ブランは1860年、サヴォアがフランスに統合されるまではフランスの山ではなかったのです。
 1828年、測量のためモン・ペルヴ一に登ったデュラン大尉はモン・ぺルヴーより高い山を発見していますが、それが現在バール・デ・ゼクランと呼ばれている山でした。しかしデュラン大尉の作った地図はしばらくの間一般の人々には知られておらず、エクランの存在も確認されていませんでした。1861年にウインパーがモン・ぺルヴ一に登った時も間違いの多い不確かな地図や情報をもとに登山しています。ウインパーもモン・ペルヴーの頂上で、谷を挟んだ2マイル(3.2km)ほど向こうに、地図にもかいてない、モン・ペルヴーより高い山があることに驚いています。1864年にはウインパーも新しい詳しい地図を手に入れて、エクランの初登頂を成し遂げています。
 エクランは自分の足でかなり高い場所まで歩かないと姿を見せてくれない山らしいのです。私達にとって山らしい神秘性をそなえた山のように思われました。いつか何とかしてこの山の頂上を見てみたい、ということが、私達の念願になりました。そして今回フランスー周旅行が実現することになって、「エクラン詣で」はその中の最大イベントとなりました。
 ウインパーの本には彼がエクランの山頂をみて画いたスケッチが載っています。どこで画いたかも見当を付けました。彼がどのコースを通ってエクランに登ったかは本の中に詳しく書かれています。しかしそこはとても私達の手に負える場所ではありません。私達のような素人の外国人でも行けるところ、そんな場所はないか。これを調べるところからこの旅行ははじまりました。

 5    エクランと北岳
更新日時:
 私達が住む山梨県には日本で一番高い山と二番目の山があります。一番は勿論富士山で、これはずいぶん遠い場所からも見ることが出来ます。独立峰ですし、その形は誰が見ても間違うことはありません。富士山は、ちょっと考えると見えそうもない所からでも見える喜びがあります。「こんな所からでも富士山が見えた。」という感動と驚きです。そのことが富士山の価値を一層高めていると言っても良いでしょう。
 二番目の北岳はなかなかその姿を見ることが出来ません。明野村から北岳は距離にして20km程のところにありますが、鳳凰三山に遮られて見えません。甲府盆地や八ヶ岳周辺をドライブしても、北岳が見える所は非常に限られています。それに本当に良く知っている人でないとそれと確認することは難しい山です。北岳はエクラン程ではないまでも、その見えにくさのせいで、チラッとでも見えた時の喜びは格別です。わざわざ出掛けて行ってでも北岳をみようという気持ちにもさせられます。私達は北岳にも登ったことがあります。そこで見た花や鳥は思い出深く、北岳には特別の思い入れがある私達です。そんなこともあって、私達はエクランにひかれたのかも知れません。
 

 6    事前準備・・・東京のフランス政府観光局に行く
更新日時:
 具体的におよその旅行の日程が決まったのは約1年前。情報集めにかかったのはその3ケ月後の9月ごろからでした。それまでに手持ちの本やパンフレット等を読み、今後の作戦を立てました。
 私達は海外旅行をするとき、必ずといって良いほど、東京にある、その国の観光局に行って資料をもらいます。イギリス、ドイツ、フランスには度々お世話になっています。ただし観光局は土日、祝日はお休みですので、以前東京で勤めていたころも、観光局へ行く時間を作るのが大変でした。現在は勤めてはいませんが、山梨県に住んでいて、束京で用があるのは土日が多いので、なかなか都合良く出掛ける事ができません。今回私が行ったのは、旅行8ケ月程前の10月上旬でしたので、そのときはスキーの宣伝パンフはありましたが、山歩きやハイキングのガイドはおいてありませんでした。3月過ぎにでも行けばそういうものもあったかも知れませんが、なかなかタイミング良く東京へ行くチャンスが無かったので、それきりになりました。

 7    事前準備・‥ミシュラン・ガイド
更新日時:
 有名なミシュランのグリーンの表紙のガイドブックは日本国内で売られている数少ない詳しいフランス全土のガイドブックではないでしょうか。少なくとも私達にとってはとても有益でした。今回の旅行にも行程に含まれる全巻を持参し、その日行く場所の巻を常に車に乗せ、事あるごとに検索し、町の地図を見ながら運転したものでした。
 日本語版や英語版は割りと多くの本屋さんで扱われていますが、私達が読みたかったアルプス南部とアルプス北部は残念ながらフランス語版しか発行されていません。さいわい私達は二人とも大学の第二外国語がフランス語だったので「なんとかなるさ。」という図太い考えで、それを買うことにしました。日本橋の丸善にはフランス語版のミシュラ・ガイドがおいてありますが私が行った時は欲しい 「巻」 は半分以上品切れで取り寄せになりました。必要なミシュラン・ガイドがすべて揃ったのは1994年10月、旅行の8ヶ月前でした。
 そして「このへんからならエクランが見えるのではなかろうか。」と目星を付けた場所の説明を読みました。最初にざ一つと目を通して、ECRINSという文字があると、丁寧に辞書を引きながら読むのです。めぼしい単語は殆どすべて辞書を引くような状態でした。エクランを見たい一心で手間も厭わず読みました。理解出来たのは50%ぐらい、あとは判読で意味を考えました。この巻の日本語版が、それが無理ならせめて英語版があったら、と、何度思った事でしょう。でもこんな所まで出掛ける日本人がいかに少ないかという事の証明でもあるのですから仕方ない事でしょう。
 読んだのは、グルノーブル、ブール・ドアザン、ラ・ベラルド、ラ・グラーブ、ブリアンソン、ヴァル・ルイーズなどが中心でした。そしてエクランが見えそうな場所をいくつか拾い出す事が出来ました。

 8    事前準備・・・ミシュラン道路地図
更新日時:
 ミシュラン・ガイドを買いに丸善へ行った時目についたのがミシュラン道路地図帳20万分の1のフランス全土版でした。ドイツ・ロマンチック街道を車で旅した時は5万分の1の詳しい道路地図は現地調達でしたから、今回もそうするつもりにしていたのですが、事前準備には良いかと思って買いました。そしてミシュラン・ガイドを読みながら、ウインパーのアルプス登はん記を読みながら、この地図でその場所を確かめました。すると次第にフランス・アルプス地方全体の地理が頭の中に入ってきたのです。そうするといよいよ面白くなって、地図を見ながら頭の中でフランス旅行をしていました。コースを考えるにも、一日分の行程を考えるにも、とても役に立ちました。もし余裕があったらあそこへも行ける、ここへも行ける、と想像はいよいよ広がりました。ガイドブックを読んでは地図を見て、地図を見てはガイドブックを読む、ということの繰り返しですっかり地図になじみました。どのへんに何が書いてあるということもおよそ分かるようになりました。事前にゆっくりこの地図を読んでいたのはとても有効でした。
 実際に現地へ行った時も、ドライブだけならこれ以上くわしい地図は必要ありませんでした。町から町への移動はこれで十分だったのです。小さな町の中の地図はミシュラン・ガイドに載っているし、地図とガイドで鬼に金棒、この地図も常に車に乗せて、地図を見ながら運転しました。                     
 毎朝この地図を見ながら、その日行く町や通過する町の名前・、分岐点、道路番号とその道路の行き先にある大きな町の名前等のメモを作り、車のフロント・ウィンドウの下の見易い所に置いて道を間違えないようにしました。
 フランス国内のある町でたまたま入った本屋さんにも同じ地図が目立つ所においてあり、心強く思ったものでした。

 9    ミシュラン道路地図の素晴らしさ
更新日時:
 この度の旅行ではミシュランのガイドブックと地図に大変お世話になりました。出発前から研究し、旅行中もこれらを頼りに車を走らせました。実際に車で走って見てこの地図の素晴らしさを実感しました。
 まず日本の地図にはないもので、私が素晴らしいと感じた点を挙げましょう。
 @「この道は景色の良い絶好のドライブ・コースです。」という道には特別な色が付けてあります。大きな国道にも、山の中の小さな道にもついています。時間と手間暇をかけて実際に現地へ行って調べたものでしょう。私達も大いに参考にしました。
 A「この地点は見晴らしが良く、まわりの景色が良く見えます。」というポイントには *のような特別のマークがついています。私達はこのマークをペカペカマークと呼びました。しかもどの方向が良く見えるかも分かるようになっています。「この地点からこっちの方向の見晴らしが良いのであれば、たぶんあの山が見えるであろう。」という推測が出
来る訳です。日本の地図でも多少はこのようなマークがついているものもありますが、これほど徹底していて、親切なものはありません。
 B「ターブル・ドリアンタシオン」というテーブル形のマークがあります。最初私達はこれがどんなものを表しているのか分かりませんでした。たいてい高い山の頂上や高台にあるペカペカマークと一緒にあることが多いのです。主人が推測して言いました。「ほら、日本でも山が見えるところなんかに時々あるじゃないか。山の絵が画いてあって、山の名前が書き込まれている銅版とか絵とか。あれじゃないかな。」でも地図を見ると結構あちこちにこのマークが画いてあるのです。「そんなものがこんなにたくさんあるのかな。」と半信半疑でした。実際現地へ行って、初めて地図にターブル・ドリアンタシオンが画いてある地点へ行ってそのものを見付けた時はちょっとした感激でした。予想した通りのものがそこにあったのです。道路にもターブル・ドリアンタシオンを示す案内標識があったのにも驚きました。それにしてもフランス中にこんなにたくさんのターブル・ドリアンタシオンがあるのでしょうか。答えは「その道り。」でした。
 私達はあちらこちらでターブル・ドリアンタシオンを見ました。お陰で半信半疑で「あれは○○山じゃないかな。」ということが無く、確信をもって「あれが××山だ。」と言い切ることができます。××山を見た感動がさらに大きくなるような気がします。
 フランス人もターブル・ドリアンタシオンが好きらしく、高い所へ上って釆た人は、大体真っ先にターブル・ドリアンタシオンヘ釆て、「あれが△△山だ・・・」 とみんなでやっています。たいていそこには人が集まっていました。日本にももっとこういうものを作って欲しいと思いますが、国中にたくさんあるターブル・ドリアンタシオンを、全部とは言わないまでも、こんなにたくさん地図に載せているミシュランも偉いと思いました。フランス人がこういうものが好きだからこそ、たくさん作られミシュランも載せるのでしょうが、ミシュランのお陰で私達はたくさんのターブル・ドリアンタシオンを見ることができました。
 Cフランスの大きな道路には番号がついています。
  A・6のようにAで始まればオートルー(高速道路)
  N・85のようにNで始まれば国道
  D・751のようにDで始まれば県道です。
 そして地図にはAからDに至るまで、すべての道路番号が書かれているのです。地図を見て、あらかじめ「バルビゾンからD・64を2kmぐらい走ってN・39に乗り、約10kmでA・6に乗ってパリヘ行く。」というメモを作っておきます。道路の要所要所や分岐点には必ず道路番号のついた標識がありますから、それと見合わせて行けば間違うことはありません。
 地図と標識の両方が整備されているので、私達のような初めて通る外国人でも間違わずに目的地へ行けるのです。

 10    事前準備・・・「アルプス登はん記」エドワード・ウインパー著
更新日時:
私達が読んだのは岩波文庫の浦松佐美太郎訳上下二巻です。
 山好きな人、アルプスの好きな人には必読書と言われている、山岳文学の古典です。私達が最初にこの本を読んだのは1982年、この年の暮れに家族でツェルマットにスキーに行くことになって、その事前準備として読みました。
 ウインパーはヨーロッパ・アルプス登山史の黄金時代に活躍し、数々の初登頂を成し遂げ、なかでもマックーホルンの初登頂者として、登山史に不滅の名を残しました、しかしその後の彼の人生はドラマ以上のものでした。
 この本は彼が1860年から1865年までの間、マッター・ホルン、モン・ブラン山群、ドフィネ山群の山を中心として、スイスのインターラーケンからイタリアのトリノ、フランスのグルノーブルまでの間を歩き回った記録が綴られています。彼が残したこの詳細な記録は、現代でも山を目指す人々の良きガイドブックであると同時に、ウインパーの不撓不屈の精神力、緻密、冷静な判断力、あくなき好奇心、皮肉たっぷりの批判精神などを知ることの出来る、とても面白い読物でもあります。
 最初に読んだときは主にマッター・ホルンの登頂に関する部分が中心でした。何度も試みては退けられ、そしてとうとう、同じころ登っていたイタリア隊を僅かに抑えて、一番乗りを果します。しかしその下山の際に痛ましい悲劇が待っていたのです。
 今回、ドフィネ地方を旅行するに当たっては、エクラン周辺の彼の足跡に特に注目しました。彼がアルプスの魅力に取り付かれるきっかけとなったモン・ベルヴーの登山、そしてその頂上で見たエクラン。その3年後その付近の新しい情報を得てエクランに挑み、無事成功する、という部分です。
 彼が、いつ、いかにして数々の山の初登頂に成功したかのいう事実の記録の中から、この地方の地理、気候、当時の人々の生活や気質等も知ることが出来、とても参考になりました。
 どの山からはどんな山々が見える、とか、どの地点からどんな景色が見える、などが、時には彼自身のスケッチと共に詳しく書かれています。彼がエクランをスケッチしたのは、ラ・メイジュの近くの、プレーシュ・ド・ラ・メイジュだろうと思われます。彼がエクラン初登頂をしたコースはラ・ベラルドを出発してボン・ピエール氷河を通り、エクラン頂上の北側のブラン氷河の側から岩壁に取り付き、頂上に達するというものでした。私達は地図を参照しながら読み進みました。しかし彼が取ったコースをたどることは私達には不可能です。この近くで私達にいも行けるところで、これに近い景色の見えるところないか。これが私達の課題でした。
 彼がエクランの初登頂を達成したのは6月25日のことです。彼がマッターホルンの初登頂に成功したのは7月14日です。この頃がアルプスの山の天気が最も安定する頃らしいのです。そこで私達もこの時期に合わせてここを訪れることにしました。

| Prev | Index | Next |


ホーム コラム コラム コラム コラム リンク集


メールはこちらまで。