フランスアルプス
エクランをたずねて
中高年夫婦の車と足でのエクラン探訪記。
 
この文は1995年に書いておいたものです。
ホームページで発表する2007年では
諸事情は異なることをご承知下さい。
 


 11    事前準備・・・「アルプスの谷アルプスの村」新田次郎著
更新日時:
 新田次郎著のこの本を、私はずっと以前に誰かから借りて読んだ記憶がありました。ほんの一部分の拾い読みでしたし、題名の記憶も確かではありませんでした。今回の私達のアルプス探訪の良い参考書になりそうな気がして、本屋さんで探しましたが見付かりません。そうこうするうち出発の日が近付きました。ちょうど成田を発つ前日、たまたま立ち寄った本屋さんで、新潮文庫のこの本を見付けました。早速買い求め、その夜、私達の訪問地の部分を拾い読みしました。もっと早く手に入れて丁寧に読んでおけば良かったと今は思っています。
 この本は新田次郎氏が佐貫亦男氏と共に1961年、スイスのチューリヒを出発点として、3ヶ月かけてスイス、フランス、イタリアのアルプス地方を旅行した記録です。あちこちでアルプスの代表的な秀峰を眺め、数々のトレッキングをしています。岩と氷河には挑戦しない、という、私達の山歩きのスタイルに合った歩き方です。
 新田氏もウインパーの「アルプス登はん記」を読んでいて、随所にその引用が出て来ます。ドフィネ地方でもウインパーがエクラン登頂の基地にしたラ・ベラルドに滞在して、いくつかのトレッキングをしています。私達にも大いに参考になりました。
 ただ時代が少し古いのでちょっと用心しました。また、彼の本は、文学的要素が強く、彼の主観、彼の好みが色濃く出ていますので、ガイド・ブックとしてはかなり割り引きして読む必要が有ると思いました。
 しかし結果から言うと、私達はラ・ベラルドでは彼の泊まった宿に泊まり、彼の登ったタンプル・エクラン小屋まで登ることになりました。彼が34年前に見たものと同じものを目の当りにして、彼の感想に共感する部分も有りましたが・、ちょっと納得しかねる部分もありました。
 チューリヒを出発したのが7月30日、となっていますが、いつラ・ベラルドに着いたのかは書いてありません。季節が少し違って、気候が違ったせいかも知れません。 新田次郎著のこの本を、私はずっと以前に誰かから借りて読んだ記憶がありました。ほんの一部分の拾い読みでしたし、題名の記憶も確かではありませんでした。今回の私達のアルプス探訪の良い参考書になりそうな気がして、本屋さんで探しましたが見付かりません。そうこうするうち出発の日が近付きました。ちょうど成田を発つ前日、たまたま立ち寄った本屋さんで、新潮文庫のこの本を見付けました。早速買い求め、その夜、私達の訪問地の部分を拾い読みしました。もっと早く手に入れて丁寧に読んでおけば良かったと今は思っています。
 この本は新田次郎氏が佐貫亦男氏と共に1961年、スイスのチューリヒを出発点として、3ヶ月かけてスイス、フランス、イタリアのアルプス地方を旅行した記録です。あちこちでアルプスの代表的な秀峰を眺め、数々のトレッキングをしています。岩と氷河には挑戦しない、という、私達の山歩きのスタイルに合った歩き方です。
 新田氏もウインパーの「アルプス登はん記」を読んでいて、随所にその引用が出て来ます。ドフィネ地方でもウインパーがエクラン登頂の基地にしたラ・ベラルドに滞在して、いくつかのトレッキングをしています。私達にも大いに参考になりました。
 ただ時代が少し古いのでちょっと用心しました。また、彼の本は、文学的要素が強く、彼の主観、彼の好みが色濃く出ていますので、ガイド・ブックとしてはかなり割り引きして読む必要が有ると思いました。
 しかし結果から言うと、私達はラ・ベラルドでは彼の泊まった宿に泊まり、彼の登ったタンプル・エクラン小屋まで登ることになりました。彼が34年前に見たものと同じものを目の当りにして、彼の感想に共感する部分も有りましたが・、ちょっと納得しかねる部分もありました。
 チューリヒを出発したのが7月30日、となっていますが、いつラ・ベラルドに着いたのかは書いてありません。季節が少し違って、気候が違ったせいかも知れません。

 12    目を付けた場所
更新日時:
 事前準備の結果、私達が目を付けたのは次の所です。
 @ブール・ドアザン:グルノーブルから南東へ20 km。ロマンシュ谷やヴュネオン谷の入り口にある、ちょっと大きな町。資料を集めたり、泊まったりするのに良いかも知れない。
 Aラ・ベラルド:ここは何と言ってもエクラン登山の基地。その他の山登りの基地にもなる、登山者の村。標高1700m。ウインパーも新田次郎も行った村。グルノーブルからバスも通っている。
 Bテート・ド・ラ・メ:ラ・ベラルドの村のすぐ北西に聾える標高2519mの山。地図にもペカペカ・マークが全方向ついているし、ターブル・ドリアンタシオンもある。ガイド・ブックにはエクランが見える、と書いてある。徒歩でしか登れない。しっかりした足ごしらえが必要と書いてある。かなり急な道のようである。
 Cラ・グラーヴ:ラ・メイジュ見物の基地。この町からのラ・メイジュは天下一品だというし、ここからロープ・ウェイが出て、標高3200mのラトゥーの肩まで、一気に連れて行ってくれる。そこからのラ・メイジュは迫力満点である。
 Dル・シャズレ:ラ・グラーヴの町の教会のそば。そのテラスからラ・メイジュが良く見え、ターブル・ドリアンタシオンもある。
 Eコル・デュ・ガリビエ:ラ・グラーヴとサン・ミッシェルを結ぶ道路の峠。エギーユ・ダルヴ、モン・タボール、エクラン、ラ・メイジュなどが見える。車で登れる。
 Fコル・ドゥ・グラノン:ロータレ街道をブリアンソンの少し北西でD34を登った峠。ミシュラン・ガイドにここからのスケッチが載っていて、ポチッと小さくエクランが画いてある。車で登れる。
 Gセール・シュバリエ:コル・ドゥ・グラノンとはロータレ街道を挟んだ対斜面。冬はスキー場になる。この山頂までロープウェイがかかっていて、見晴らしが良くターブル・ドリアンタシオンもある。エギーユ・ダルヴ、モン・ベルヴー、エクランが見える。
 Hラ・ブッセ:この村の近くにモン・ペルヴーが良く見える地点がある。                                   
 Iエール・フロアド:モン・ペルヴ一登山の基地。この谷の奥に、エ
クランが見える場所がありそう。

 13    現地での情報収集・・・オフィス・ドゥ・トゥーリズム
更新日時:
 日本での情報収集はこれ以上は私達には不可能に思えましたのであとは現地調達することにしました。今まで数回のフランスやドイツ旅行であちらの観光案内所(オフィス・ドゥ・トゥーリズム)の整備は驚嘆に値すると思っていましたから、今回もそれに頼ればある程度の資料は手に入ると思われたのです。
 とにかく、仮にも観光客が訪れそうな町には必ずオフィス・ドゥ・トゥーリズムがあるのです。大体、市役所や町役場のそばなど町の中心部、駅前など交通の便の良いところ、または有名観光名所の真ん前など目立つ場所にあります。道路にも案内標示があちこちにありますから、すぐ見付かります。
 そこにはたいてい英語の話せる職員がいて、各種の資料が置いてあります。町の地図やホテルのリストなどは必ずと言って良いほどあります。ほとんどの地図やパンフレットは無料です。現地のオフィス・ドゥ・トゥーリズム編纂のかなり分厚いガイドブックやハイキング用地図も無料でした。このような資料はミシュラン・ガイドよりさらにきめが細かく、有用でした。本屋さんで売っているようなガイドブックやちゃんとした地図を有料で売っていることもあります。各国語のパンフレットを揃えているところも多く、日本語版を置いている所もあります。アルプスの山の中のアルプ・ドュエズという私達の聞いたこともない町で日本語のパンフレットを出された時はびっくりしました。ホテルの予約を取ってくれる所もあります。手数料は有料の所と無料の所があります。両替の出来る所もありました。銀行がしまっている時も開いているので便利だと思いました。オフィス・アワーはそれこそ所によってまちまちですから、良く調べたほうが良いですが、日曜も開いているところもあるし、9時ごろから夜10時ごろまで開いている所もあります。昼休みがあるところもあります。フランスではきめの細かい観光案内サービスが全国規模でどこでも同じように受けられます。オフィス・ドゥ・トゥーリズムはパリのシャンゼリゼー通りにもありますし、夏だけ数軒のホテルやカフェが店開きする山奥のラ・ベラルドにもあります。このような実態を見ても、フランス(というかヨーロッパ全体かもしれませんが)の観光事業への取り組みのきめの細かさを見せつけられるような気がします。
 日本にも、観光地には観光案内所がありますが、あまり目立ちません。小さな町村にはありません。くれる資料も種類が少なく、いろんなニーズに対応出来ているとは思えません。まして外国人に対応出来る所は大都市中心のごく僅かの所でしょう。統一した基準もなく、個々の市町村がバラバラなサービスをしているように思われます。

 14    オフィス・ドゥ・トゥーリズムでの実際
更新日時:
 その土地、土地でオフィス・ドゥ・トゥーリズムに飛び込み、「エクランを見たいのです。この辺にエクランの見えるところはありませんか。エクランに関する資料はありませんか。」と聞きました。
 ブール・ドアザンでは「アルプ・ドュエズに行ってピック・ブランに登りなさい。頂上までロープ・ウェイで行けます。回りじゅうの山が見えます。」と教えてくれました。アルプ・ドュエズの英語版のパンフレットをくれました。アルプ・ドュエズは初めて聞く名でしたが、アドバイスに従って、行くことにしました。
 アルプ・ドュエズではピック・ブラン周辺の詳しい地図の載ったハイキング・ガイドを買い、ホテルの予約を取って貰いました。ここで日本語版のパンフレットを貰ったのです。
 ラ・ベラルドでは、ラ・ベラルドからのトレッキングコースがたくさん書かれているガイドブックを無料でくれて、「タンプル・エクラン小屋へ行ってご覧なさい。」と教えてくれました。ここでフランス国土地理院(?)のエクラン付近の2万5千分の一の地図を買いました。私達もテート・ド・ラ・メに加えて、タンプル・エクランの小屋まで行くことにしました。
 オフィス・ドゥ・トゥーリズムでは私達にとってなくてはならない情
報をたくさん手に入れることができました。

 15    エクランと一口に言っても
更新日時:
 このようにひたすらエクランを追求し、ECRINSの文字を探し、エクランの名前を連呼して訪ね歩いたのですが、そうしているうちに気が付いたことがありました。
 私達は「エクラン」という名前をまるで「富士山」と同じような意味で使っていました。「富士山を見たいのです。」 「富士山の見えるところはありませんか。」と言われれば、私達なら当然、山頂と山裾を含んだあの独特な山の形を思い浮かべるを思うのです。しかし、ガイドブックを読んだり、いろんな人に尋ねているうちに、「エクラン」と一口に言ってもそれはあの4102mのエクランの頂上を表すとは限らないということに気が付きました。
 まず、PARC DES ECRINSというと、エクラン国立公園全体を指します。その中にラ・メイジュ、エルフロアド、モン・ベルヴーなどの山々を含む広大な領域なのです。
 次に、MASSIF DES ECRINSというと、エクラン山群とでも言いましょうか、エクラン頂上を含む、その一帯の山群を指すのです。
 そして、エクランの名が付くピークはいくつかあります。
 フランボー(燈火)・デ・ゼクラン(3551m)
 ジュモー(双子)・デ・ゼクラン3730m)
 クロシェ(鐘楼)・デ・ゼクラン(3808m)
 ドーム・ドゥ・ネイジュ(雪のドーム)・デ・ゼクラン(4015m)
 本命がバール・デ・ゼクラン(宝石箱の錠前)(4102m)です。
ですから「エクランが見える。」と言っでも、バール・デ・ゼクラン(4102m)が見えるとは限らない、と言う訳なのです。

 16    ポエットにて
更新日時:
 1995年7月3日
 私達のアルプス探訪はグルノーブルから始まる予定でした。グルノーブルに着く2日前、私達は国道N85、ナポレオン街道をディーニュからグルノーブルヘ向けて走っていました。途中システロンの町へさしかかった時、街を眺めて主人は言いました。「ここは面白そうな街だ。ここに泊まるぞ。」この町の事はあまり良く調べていなかったので、その夜ホテルでミシュラン・ガイドを開いて、この町の事や、町の内外の見所を調べていました。
 すると、この近くにポエットというところがあって、ターブル・ドリアンタシオンがあり、エクランが見える、と書いてあるのです。予想外の事にぴっくりしてしまいました。システロンからエクランまで直線で70〜80km、東京から富士山が見えることを考えれば十分可能性はあります。地図を見てもベカぺカ・マークが北東の方角を向いています。この位置でこの方向に見通しがきくなら、エクランが見えても不思議はありません。エクランは見えにくい山だという先入観が強かったので、こんな所からエクランが見えようとは考えていなかったのでした。とにかくそこへ行ってみようという事になりました。
 犬も歩けば棒にあたる、というのでしょうか、思いもかけぬ所でエクラン見物ができそう、と半信半疑ででかけました。あいにくその日、7月4日は朝から雨、車を走らせているうちに雨は止みましたが、雲が低く垂れ込めていました。ポエットの町はすぐわかりました。道のわきにターブル・ドリアンタシオンの案内標識があったのですぐ見付かりました。山は全然見えません。私はターブル・ドリアンタシオンに駆け寄りました。ありました。思った通りのものがあって、その中央にエクランと書かれた山が小さく画かれていたのです。景色の方はいくら目を凝らしても雲ばかり。私はじっと銅版のターブル・ドリアンタシオンを見詰めました。「エクラン、私はもうすぐあなたに会いに行くよ。」と、語りかけながら。

 17    アルプ・デュエズにて 一日目
更新日時:
 1995年7月6日
 グルノーブルからロマンシュ谷をはいって20km、この辺で随一の町がブール・ドアザンです。いよいよここからが本当のエクラン探訪の始まり、という気持ちでした。
 ブール・ドアザンのオフィス・ドゥ・トゥーリズムに行ったときは、かなり意気込んでいました。′ここならエクランについての資料が色々貰え、良い場所を教えて貰えるのではないかと期待していたのです。「エクランを見たいのです。エクランについての資料があったら戴きたいのですが。」と言いました。でも返答は「ここにはそういうものはありません。ラ・ベラルドならあるでしょう。」というのです。ここで簡単に引き下がったのでは、ここに来た甲斐がありません。そこで、「この辺でエクランの見える場所はありませんか。」と尋ねました。係の人は少し考えてから、一冊のパンフレットを取り出して、「ここにアルブ・デュエズの資料があります。アルプ・デュエズからピック・ブランという山にロープ・ウェイがかかっています。ピック・ブランの須上からは、回りじゅうの山が見えます。」と教えてくれました。「アルプ・デュエズ」とは初めて聞く名前でした。車で待っていた主人に報告し、相談の結果、そのアルプ・デュエズとやらへ行くことにしました。 寡聞にして私達はアルプ・デュエズを知りませんでしたが、パンフレットによると、この辺ではかなり名の通ったスキー場らしく、夏にも夏スキー、ハイキング、パラグライダー、自転車などが楽しめるリゾートで、通年ロープ・ウェイを動かしているようでした。ホテルもたくさんあるようです。
         
 ブール・ドアザンの町を出てすぐ、国道から分かれ、アルプ・デュエズヘ行く山道に入りました。山道といっても整備された幅の広い、センターラインのある道路でしたが、ヘアピン・カーブと急勾配には驚きました。主人も苦労しながらオートマ車のギヤを一番下まで下げて登りました。「さしずめ、日光のいろは坂ね。」と私は言いました。そう言えばカーブごとに番号がついています。
 もうひとつ驚いたのは、その、車でも喘いでいるような急勾配の坂道を自転車で登っている人が大勢いるのです。若い人は勿論、中年すぎの男性、女性、はたまた中学生くらいのあどけない顔をした一団。「中学生の夏季合宿かしら。」と私は言いました。途中へトへトになって自転車を倒して道端で休んでいる子もいました。まるで修行としか言いようのない鍛練をフランス人もやるのだな。と改めて感心しました。彼らにとって、自転車は単なる乗物や遊びではなく、真剣勝負の競技スポーツという側面をもっているのだと思います。主人は自転車の人々をよけながら、慎重に運転しました。
 つずらおりの山道を登って行くと、途中にユエズの村がありました。更に登り、断崖を登り切ったら上はなだらかな草原が広々と広がっていました。アルプス独特の地形です。草原の奥には雪を頂いた険しい岩山が聾えていました。アルプ・デュエズの集落は草原の下の端にありました。 モダンでオシャレなリゾート、という感じです。新しいホテルが一杯ありました。「街全体があんまり新しすぎて、落ち着かない街だな。都会の気取ったオボッチャン、オジョウチャンの遊びに来る所じゃないのかな。」主人の第一印象です。
 私はまずオフィス・ドゥ・トゥーリズムヘ行きました。そこでナント 日本語版のパンフレットを貰ったのです。こんなところで日本語にお目に掛かるとは思ってもいませんでした。こんな所に日本人が来るのでしょうか。フランスのスキー場として私達が知っているのは、シャモニー、グルノーブル、アルベールビル、ティーニュぐらいで、アルプ・デュエズは知りません。日本からスキー・ツアーが来るのでしょうか。それともこれから売り込もうとしているのでしょうか。
 外国を旅行しているとあちこちで日本語の掲示や看板、ガイドブックやパンフレットにお目に掛かりますが、たいていは「そうだろうな、ここは日本人がたくさん来るからな。」と納得できる所が多いのですが、ここは意外でした。
 後日談ですがその年の秋、ヨーロッパ・スキー・ツアーの広告を見ていましたら、アルプ・デュエズに行くツアーがいくつもありました。私が無知だったのです。
 ここで、参考資料を貰い、ホテルを予約して貰いました。ホテルはオフィス・ドゥ・トゥーリズムのすぐ横の、シャレ・ル・マリアンドルでした。そして2万5千分の−の詳しい地図のついた、この周辺のハイキング・ガイドを買いました。
 ホテルの前に車を止めました。ホテル正面は谷の方を向いています。傾斜地なので前の建物に邪魔されず、部屋から山が見えそうです。シャレ、と言うだけあって、山荘風の木造建築です。 私達はベランダ付きの、山の見える部屋を取って貰いました。もう4時頃になっていました。荷物もおろさず、とにかくそのままロープ・ウェイまで偵察に行くことにして、車で街の上のはずれのロープ・ウェイ乗場へ行きました。タイム・テーブルを見ると、まだ最終便には間に合いそうです。でも上を見上げてがっかりしました。100mも行かないくらいの所から、山もロープもすっかり雲の中に入ってしまっているのです。明日の天気を期待して、今日は引き返す事にしました。それでも主人はしきりに上の方を眺めています。何を見ていたのかは後になってわかりました。
 アルプ・デュエズは標高1860m、ここから標高3328mのピック・デュ・ラック・ブランの頂上までロープ・ウェイがかかっています。途中2つの駅があって、頂上へは2つ目の駅で乗り換えます。ひとつ目の駅まではなだらかな草地、スキーで言えば初心者コース、二番目の駅までは岩や雪渓の、崖の多い場所、更にその上が湖と急な山頂です。ひとつ目の駅から上は、スキーで言えば中、上級コースでしょう。冬には頂上から一部トンネルを通って、一気にアルブ・デュエズまで滑り降りる事が出来るそうです。
 偵察から部屋へ帰り、早速ベランダヘ出てみました。向かいの谷はすっかり雲に埋もれて山は見えません。上空は青空が出ているのに、と、恨めしい思いでした。明日の天気に懸けるよりありません。帰ってからも主人はさっき買ったハイキング・ガイドをしきりに見ていましたが、やがて「明日は頂上まで行ったら、二番目の駅までロープ・ウェイで下りて、その下は歩くぞ。登山靴を履いて行こう。」と言い出しました。「この地図とさっきの偵察で、ここは歩けそうだと判明した。特に始発駅とひとつ目の駅の間は散歩コースだ。足慣らし、靴慣らしのため明日は歩く。」と言うのです。私はただロープ・ウェイで登ってエクランを挑め、ロープ・ウェイで下りて来るものと単純に考えていたので、このプランにはちょっとびっくりしましたが、主人の状況判断と対応の素早さに感心し、喜んで賛成しました。
 日本を発ってからずっとスーツケースの中に入りっばなしで、私達の荷物を重くしていただけだった2足の登山靴がようやく日の目を見るのです。キルティングのコートも同時に引っ張り出されました。富士山8合目ぐらいの標高の所へ行くのです。夏でもちょっとお天気が悪かったら相当寒いはずです。用心に越したことはありません。あとはただひたすら明日のお天気が良いことを祈るばかりでした。

 18    アルプ・デュエズにて 二日目
更新日時:
1995年7月7日
 朝目が覚めて一番にしたことは窓を開けお天気を見たことでした。空には薄雲がかかっていましたが、谷の向こうの山はすっかり見えています。万歳!天は我らに味方した!という気分でした。朝食を食べたらすぐ出発、と決めました。ホテルの朝食時間、8時が待ち遠しい思いでした。朝食を済ませ、チェック・アウトして車でロープ・ウェイ乗場へ行きました。上空は青空。今日なら見晴らしは良さそうです。車をおり、登山靴に履き換え、山支度をしてロープ・ウェイに乗りました。1台6人乗りの小さなキャビンが5連で動きます。この形式はフランスの他の町でも見掛けました。グルノーブルのも同じです。私達と同じキャビンにはスキー支度をして、スキー板をもった人と軽装の家族連れが乗っていました。「夏スキーが出来るんだ。上は相当寒いんだ。」と実感しました。ひとつ目の駅で軽装の人達は降りました。この辺でハイキングをするのでしょう。この駅から下はなだらかな草地で、一面に山の花が今を盛りと咲いています。小さなせせらぎもあります。草地の中には自動車道絡もあり、車も走っています。 ひとつ目の駅はそのまま通過し2番目の駅まで登りました。ひとつ目の駅から2番目の駅の間は、今までの草原、という風情から打って変わって、岩山の上にあちこち雪渓が残っている、という地形になりました。大体の斜度は緩やかですが、崖も所所にあり、「ここを下りるとするとどう迂回すれば良いのだろう。」と、考えさせられる所もあります。主人は下を見ながら、「あ、ここをこう歩けば良いんだ。ちゃんと標識がある。」 と、下りのとき歩くコースを思い浮かべている様子です。それでもどうしても雪の上を歩く箇所が数箇所出て来そうです。私が「アイゼンがなければ無理じゃないかしら。」というと、「イヤ、この雪はグズグズ雪だからこの靴でも大丈夫だ。でも何か杖みたいなものがないと不安だな。」と、しきりにコースの取り方を考えています。結論が出ないまま、2番目の駅に着きました。ここでは全員いったん降りて、別の中型のゴンドラに乗り換えます。6畳ぐらいの広 さはあるでしょう。ここから上へ行く乗客の半分はスキー客でした。子供もいま す。冬スキーと同じ身支度でした。
 ここから上は雪と岩の世界でした。ここを滑るとしたらどういうコースになる のかと、ちょっと心配になるほどの急傾斜の連続です。主人も、今度はスキーで 滑るときのコースをしきりに考えています。それにしても、よくまあこんな所に ロープ・ウェイをつけたものです。
 驚いているうちにゴンドラは3328mの山頂 に着きました。上空は青空で太陽が出ていましたから、キルティングは暑いくら いでしたが、太陽が陰ったらかなり寒いだろうと思われました。山頂駅のすぐ下 でスキーをしている人が見えました。アルプ・デュエズから見るとちょうど山の 陰にあたる所の氷河のうえで50〜60人の人がスキーをしていました。子供達のス キースクールもやっているようでした。
 私達は真っ先に山頂のターブル・ドリアンタシオンヘ向かいました。数人の人 達が群がっています。ターブル・ドリアンタシオンをみて驚きました。円いテー ブル状の絵があって、その上に厚いガラスがのせてあるのですが、それに細かい ひび割れができて、下の文字がほとんど読めないのです。「よっぽど寒いので凍 って割れたんじゃないかな。」とは主人の推測です。これでは山の確認が出来な い、といったんはがっかりしたものの、「私達はターブル・ドリアンタシオンを 見に来たのではない。山を見に釆たのだ。」とあたりを挑めました。上空は青空 なのに、周囲遥かの山々はガスってうっすらとしか見えません。かなり雲が多く 、しかも雲がわいたり流れたり、山が見え隠れするのです。一生懸命目を凝らし、少ない知識を寄せ集めるのですが、私達にはどれが何という山か、とい う判断がつきません。するとそばの人が教えてくれました。「あれがモン・ブラ ンよ、あれがグランド・ジョラス、そしてあれがエギーユ・ダルヴ。」私は尋ね ました。[あれはラ・メイジュですか、あれはエクランですか。」 「そうだ、」との 返事。念願のエクランが見られたのです。でも随分小さく随分霞んで見えます。 回りの山並みや雲に埋もれて何か印象が弱いのです。半信半疑という感じで、思ったほどの感動はありませんでした。でも一歩一歩エクランヘ近付いていることは間違いありません。まだまだこれからだ、と思いました。気の済むくらいたくさんの写真を撮り、そばの人に私達二人の写真も撮ってもらって山を下りました。
 山頂駅からゴンドラに乗り、2番目の駅で降り、外へ出ました。ここから下まで歩けるでしょうか。もう一度ゆっくりコースを目で追いました。どうしても何カ所か雪の上を歩きます。大丈夫だろうか。ちょっと緊張します。「多分大丈夫だろう。でも万一雪の上で転んだとき、杖一本あれば助かるが、素手では滑落して事故になる可能性もある。ここを歩くのは止めよう。」主人が決めました。慎重な決断にちょっとホッとしました。再びキャビンに乗ってひとつ目の駅まで下りました。ここからアルプ・デュエズまでは草原のハイキング・コースです。天気は良いし、アルプ・デュエズはすぐ下に見えています。3才の子供でも歩けそうです。花に囲まれ、鼻歌でも出そうな軽快な歩きでした。
 ここはスキー場になる前は山の上の牧場だったに違い無い。冬の間は中腹のユエズの村か下のブール・ドアザンの辺で飼われている牛が夏の間ここで過ごしたのではないだろうか。ここはスイスではありませんが、思わずハイジの世界を想像してしまいました。でも今、牛の姿は見えず、お花一杯の草原の間を縫ってくねくねとした自動車道路が通り、数台の車が見えます。ハイキングしている人の姿も数人見えます。空にはパラグライダーが飛んで釆ました。考えてみればここはパラグライダーにももってこいの地形です。ここをパラグライダーで飛んだらどんなに気持ちが良いだろう、私達もやってみたいな、と思いながら、ロープ・ウェイの始発駅のへんに着陸したパラグライダーを見ていました。広くて、人が少なくて、空は青く、山は白く、地には花。夢みたいに楽しいハイキングでした。
 始発駅まで下りて、車のところで靴を履き換え、アルプ・デュエズに別れを告げました。

 19    ラ・ベラルドへの道
更新日時:
1995年7月7日(午後)
 この日はピック・ブランに登ったら、ラ・ベラルドまで行く予定でした。ロマンシュ谷まで下る道は、上りとは違うコル・ドゥ・サレーヌを通る山道にしました。ここはミシュラン地図によると「景色の良いドライブ・コース」ということになっていたのです。道は狭いが、きちんと舗装された道路でした。峠までは緩やかな起伏の道で、両側は凄い岩山や滝がそこここに見られます。途中で羊の群れを連れている人達にも会いました。羊は1000頭もいたでしょうか。二匹の犬が上手に羊をまとめて、坂を追い上げて釆ます。一人の牧童が先頭に立ち、残りの4〜5人がのんびり最後尾について来ます。所所で車を止め、景色を挑め、写真を撮りました。
 もう、とっくにお昼を過ぎ、おなかがすいて釆ましたが、食事をするところが見付かりません。そのままどんどん走ってロマンシュ谷の国道N91へ出ました。一旦N91を西向きにブール・ドアザン向きに走り、ラ・ベラルドヘの道D530への分岐点まで来て、遅い昼食をとり、D530へ入りました。
 初めのうちは川に沿った、東西に伸びる谷底の、割りと幅の広い、往復2車線の快適な道路でした。遠く、谷の奥に雪をかぶったアルプスの山々が見えて来ました。それにしてもこの谷は、両側の南北の山々が切り立って高いこと、とても日本の山にこんな所はありません。車の左右の山を見ようとすると、窓に顔をくっつけて首をねじ曲げなければなりませんでした。私達も時々車から降りて、あたりの景色を眺めました。そばを流れる川は乳白色で、雪解け水が白い波を立てて、踊るようにどうどうと流れています。ちょうどその時、濁流の中を、7〜8人の人を乗せたゴムボートが近付いて来て、目の前の大きな石に乗り上げ、ひっくりかえりそうになった、と思ったら、無事態勢を立て直し、そのまま下って行きました。ラフティングを楽しむ人達です。山の上からは幾筋もの滝が流れ落ち、中にはとてもダイナミックに落ちているものもありました。
 谷の奥へ入って行くに連れ、道幅は狭くなり、ついに、道は谷の北側の崖を登り始めました。川はどんどんはるか下に遠のいて行きます。道は当然ヘアピン・カーブだらけの急傾斜の連続です。サン・クリストフまではそれでもまだ対向車とすれちがえるほどの道幅はありました。
 サン・クリストフの町は切り立った、2000mもあろうかという崖の中腹にへばり付いているような町でした。こんな所に集落があること自体不思議です。一体どうやって生活を立てているんだろう。冬は雪や氷で下の町へ通うのも困難ではないかと思われます。それでも教会があり墓地があり、ホテルや駐車場もありました。教会前で車を止め、写真を撮りました。
 新田次郎もこの町の事を書いていますが、彼が訪れた35年前とほとんど変わっていないのではないでしょうか。そういう印象を持ちました。
 サン・クリストフを過ぎると道はさらに狭くなりました。「これは林道なみだ。」運転していた主人が悲鳴をあげました。乗用車一台がやっと通れる幅で、所所に車交換のため広くなったところがある、という道でした。ガードレールもなく、右に寄り過ぎると数100メートルもありそうな谷底へ真っ逆さま。左に寄り過ぎると、岩山を切り開いたままのゴツゴツした岩肌むきだしの垂直のガケで横っ腹をガリガリやりそう。こんな道を普段乗ったこともない車幅の広い新車のベンツで通ろうというのですから主人も必死です。でももう後へは引けません。景色を眺めているどころではありません。二人で対向車が釆ないかと、道の遠くまで目を凝らし、早めに待機したりバックしたり。擦れ違うときは私が右側のタイヤを見て、「あー、もういっぱい。おっこちる−。」と金切り声を上げるものですから、主人も「俺だって必死でやってるんだ。喚くな。」と、けんかです。そんな道を1時間ぐらい走り、やっと無事ラ・ベラルドに着きました。

 20    ラ・ベラルドにて 一日目
更新日時:
 1995年7月7日(夕方)
 ラ・ベラルドは標高1700m、ラ・メイジュから発するエタンソンの谷と、ヴェネオン谷が合流する所で、この辺にしては少し広い河原があります。20軒足らずの集落があり、夏の間観光客を相手に店開きしている宿やお土産屋があります。この奥はもう車は入れません。登山の基地になる所です。「さしずめここは広河原(南アルブス・北岳などの登山基地)だな。」主人の第一印象です。 
 ラ・ベラルドに着く前から夕立が降り始めました。主人はあの、神経を擦り減らすラ・ベラルド街道の運転でクタクタになっていました。これからは私の出番です。村の入り口の橋を渡ると、左手が村、村へは車両進入禁止の標識が出ていました。右を見るとオフィス・ドゥ・トゥーリズムがありました。早速車を止めて、私が中に入りました。まず宿の予約を頼むと、案内の印刷物を出して、「村には2軒しかホテルはありません。すぐそこですから自分で行って聞きなさい。」と村の方を指さしました。そして「エクランを見たいのです。」というと「テート・ド・ラ・メが良いでしょう。」という返事です。「他にはありませんか。」と聞くと、「では、タンプル・エクラン小屋へ行ってご覧なさい。」と言ってガイドブックをくれました。「もう少し詳しい地図はありませんか。」というと「これは有料です。」と言ってフランス国土地理院(?)発行の、メイジュ・ペルヴーの2方5千分の1の地図を出してくれました。お礼を言って車に戻りました。
 宿を探すにはとりあえず車を駐車しなくてはなりません。どこかに駐車場がありそうなもの、と道なりに進んで行くと河原が大駐車場になっていて、たくさんの車が駐車していました。50〜60台はいたように思います。こんな小さな集落にこんなにたくさんの車が入っているようでは、宿は満員かも知れない、と不安になるくらいでした。しかも駐車箇所はまだまだ余裕がありました。一角はヘリポートにもなっていました。こんな小さな村に、と考えてしまうほど大きな駐車場です。 
 雨はまだ降っていました。河原から村へは歩いて上れるようになっていました。主人は「ここに2晩泊まるぞ。」と言います。主人を車の中に残し、私は雨に濡れながら一人で宿を探しに出掛けました。最初に目に入ったのが、壁に大きく「オテル・デ・グラシエー(氷河ホテル)」と書かれたホテルでした。新田次郎氏が泊まったのは確かこのホテル、と思いましたから、まずそこを当たることにしました。入り口らしいドアを開けました。でもそこにレセプションらしいものは見付かりません。正面に二階に上がる階段がありました。階段の横のもうひとつのドアを開けるとそこは食堂でした。時間外なので明かりがついてなくて、薄暗くてガランとしていました。30人ぐらいは座れそうな広さです。その奥の厨房らしいところで人の気配がしましたので、もうひとつドアをあけました。やっと宿の人を見付けました。案外あっさりOKしてくれました。一人一泊二食付き(ドゥミ・パンシオン)で180フラン(日本円にして約3600円)。今まで泊まったホテルの中で一番安い宿です。
 カギを渡してくれ、車は宿の横に駐車して良い、とのことです。車に戻って主人に話し、再び村の入り口に車をもどし、進入禁止の標識の横を通って村へ入りました。よく見ると「村の住人以外進入禁止」だったのです。するとあの、河原にいっぱい停まって居る車は登山者かキャンパーのものなのでしょうか。とにかくホテルの泊まり客のものではない、という事が判明しました。事実ホテルは空いていて、その夜は私達以外の客は2〜3組だけのようでした。
 一旦部屋に落ち着き、少し休みました。そのあとあすの予定を立てるために村の偵察に出掛けました。雨はもうあがっていました。東西に走るおよそ50mほどの一本の通りの両側がこの村の総てでした。小さな古い教会がありました。その近くにガイド組合の事務所がありました。道端には小さな菜園があって、みすぼらしいレタスが植えてありました。ここに住む人の自家用野菜でしょう。とてもお客の分はまかなえそうにありません。この通りをどんどん東へ行けば、ヴェネオン谷の上流、タンプル・エクラン小屋方面の登山道です。村の入り口の橋の少し西に北へはいる登山道があり、テート・ド・ラ・メやエタンソンの谷、ボン・ピエール氷河方面へ通じていることなどを確かめました。

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