りんご園繁盛記

このページは私達が1995年から2003年までの9年間、リンゴ園経営に関わった時の記録です。このときも行き当たりばったりにそうなってしまい、思いもかけぬ出来事にたくさん遭遇しました。今は、とても貴重な良い思い出です。
 
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 1     明野にリンゴ園を見つける  
 1986年、明野に家を手に入れ、通い始めて間もなく、うちから車で3分ほどの広域農道沿いに、かなり大規模なリンゴ園を見つけました。私は意外なことで、驚きました。私の年代ではリンゴ園と言えば美空ひばりの「リンゴ園の少女」。あの舞台は青森県弘前。青森と言わずとも、リンゴのふるさとは北国。東北地方か、せいぜい長野県、と思っていたので、山梨県でリンゴを作っているとは知らなかったのです。
 明野村誌に依れば、明野村永井原のリンゴ団地が作られたのは1979年から1984年、リンゴの苗木が植えられたのは1983年からだそうですから、私が最初に見たときはまだ出来たばかりだったようです。
 木の高さは3メートル以下の垣根仕立ての矮化栽培でした。品種はフジ、つがるが主流で、他に王林、陽光、千秋などがありました。
 2     私の父はリンゴ党  
 私の父は大のリンゴ好き、というか、毎日健康のためリンゴを食べることを決まりにしている人でした。秋田県出身で、リンゴを身近に育ったこともあるでしょうが、若い頃から胃が弱く、リンゴはお腹の調子を整えるのに欠かせない、と信じていたようでした。私が子供の頃、家計が苦しい時代にも、父には必ずリンゴが出されました。子供にまで食べさせる余裕はありません。子供達はリンゴの皮を取り合って食べていました。私が大学生になった頃からは我が家の家計にも多少のゆとりが出来、子供達もリンゴが食べられるようになりました。
 父のリンゴ好きは勤め先でも有名で、出張にも必ずリンゴを持っていきました。部下の方が同行するときは、部下の方は毎日リンゴを用意させられたそうです。
 私はリンゴを見ると必ず父を思い出します。そして旅行先などで、地産の新鮮なりんごを見つけると、父に土産に買って帰ったものでした。
 3     リンゴ入手の試み  
私は、明野のリンゴを父に食べさせたいと思いました。明野のリンゴは、青森より、長野より収穫時期が早かったのです。そして、収穫期のある日、リンゴ園のそばで、収穫したリンゴを運んでいた人を呼び止めて「そのリンゴを少し売っていただけないでしょうか。」とたずねました。すると「このリンゴはすべて農協に出荷することになっているので、勝手に売ることは禁じられているのです。」という答えでした。最初の試みは失敗でした。
 
 初期の頃は珍しさもあってか、市場でも高値で取り引きされ、貴重品扱いだったようです。
 
 4     1993年ころのリンゴ園  
1993年に私は東京での仕事を辞め、明野に定住しました。そのころにはリンゴ園も10年ほど経ち、広域農道沿いにはリンゴの直売所も何軒か出来、観光つみ取り園もありました。私は時々直売所でリンゴを買って、うちで食べたり、父や友達に届けたりしていました。
 5     リンゴのオーナー募集を頼まれる  
1995年の春のことでした。私は別の章「明野の生活」でも書いたように、「明野村花卉生産者連絡協議会」に入って、アスター栽培講習会を受けていました。近所に住む I さんと一緒に一枚の播種箱のアスターを育てることになりました。I さんは米や野菜の他に、広域農道沿いのリンゴ団地でリンゴも作っている農家でした。
 発芽して間もないアスターの苗を二人で植え替え作業をしていたとき、I さんが言い出しました。「吉田さんは東京方面に沢山友達がいるようだけど、その人達に、リンゴの木のオーナーになってもらえないだろうか。」というのです。I さんの所有している「千秋」という品種は、作っている人も少なく、害虫にやられやすくて作りにくく、しかも熟すと実の上部にひび割れが入りやすくて見た目が悪い上、そこから傷みやすいので、農協が共同出荷を止めることにしたので、自分で販売先を見つけなければならなくなった、と言うのです。I さんは「私は、味はこのリンゴが一番美味しいと思うのだけど、市場出荷するには色々難点があるのよ。このリンゴの特徴を知った上でオーナーになってくれる人がいると良いのだけれど。」と、いうことでした。「千秋」の木は約100本ある、とのことでした。
 私は「リンゴの木のオーナー」とはどんなものかはよく分かりませんでしたが、リンゴを買ってくれる友達を紹介することぐらいはできると思い、一応引き受けました。
 6     私流「オーナー制度」  
それから、私は、新聞や本等でオーナー制度のことを調べました。そして自分なりに「こうしたら私がオーナーになっても楽しいんじゃないか。」というオーナー制度を考えました。
 よそでやっているオーナー制度の中には、リンゴの木一本分の果実を全部買い取って、自分で収穫するだけ、というものもありましたが、それではもの足りない気がしました。
 私は、リンゴ園の中の一本の木を、まるで自分の木のように思えるように、一年中いつでもその木を見に来ることが出来るようにしたい、と考えたのです。一年契約が原則ですが、出来れば同じ木を長年にわたって所有してもらい、花見もし、手入れもし、収穫も出来るようにすれば木に対する愛着も強くなると思ったのです。しかし、オーナーの人々は遠くに住み、忙しい生活をしている人が多いでしょうから、出来ないことは農家のほうで責任を持ってやり、少なくとも収穫だけは自分でやってもらうということにしました。
 このやり方は農家側の負担が大きいので、農家とオーナーの連絡調整役を私がやり、オーナーが来園したときは私も農家と一緒に応対すればよいと思いました。
 7     オーナーの条件  
オーナーはリンゴ園の中に自由に入ってもらうわけですから、信用のおける人達で無ければなりません。よそのオーナー制度の農園では、オーナーのマナーが悪く、自分の木でないものからも取っていく、とか、近隣の農園のリンゴまで取っていくという、苦情が出るという噂を聞きましたので、私は不特定多数の人を対象にせず、自分の知人のみに限ることにしました。後になってここのオーナーからリンゴをもらった人から「自分もやりたい」と言われることがありましたが、会員の紹介ならば受けることにしました。
 一度オーナーになると多くの方が継続してオーナーになってくれ、口コミで新しい会員も増えて、年々会員は多くなってゆきました。
 会員の紹介でオーナーになった方とも、私達はお友達としておつきあいさせてもらいましたので、リンゴ園を止めた今でもおつきあいが続いている方々もいます。
 うちのオーナーさん達はマナーが良い、と近所でも評判でした。
 
 8     役割分担  
 私の考えもまとまりましたので、農家(I さん)と話し合って役割分担を決めました。オーナーとの連絡調整と会計、それにオーナーが来園したときの応対はわたしがやり、リンゴの手入れ一切は農家がやる。オーナーが手入れをするときの指導は農家がやる。オーナーがついてない木の収穫は当然農家がやる。ということになりました。
 リンゴの手入れなど何も知らないズブの素人の私達が、手入れをするとは考えもしませんでした。
 9     オーナー募集の手紙を書く  
1995年4月、最初のオーナー募集の手紙を私の兄弟と知人に出しました。千秋の特徴も書き、料金は一本6000円、最低保障するリンゴは100個としました。花の咲く時期に来られる人には自分で木を選んでもらい、来られない人のはこちらで決めることにしました。
 思ったより反響があり、初年度は29本の応募がありました。オーナー第1号は私から父へのプレゼントでした。
 
 10     オーナーの初来園・リンゴの花見  
オーナーに申し込んでくれた人へ「リンゴのお花見においで下さい。」と言う手紙を出しました。
 千秋の花は大体ゴールデンウィークの頃に咲きます。木と花を自分で見て、気に入った木を自分の木にしてもらおうと思ったのです。この時期の山梨は近隣にも見所も多く、ついでに山梨の観光にも一役買ってもらえるのでは、と思ったのです。
 最初の年は10組程の人が来てくれました、来園日時を連絡してもらい、夫と私は木札と墨汁と筆を持ってリンゴ園で待ちました。オーナーが木を決めると、木札に名前を書いて、木にぶら下げました。これでオーナーは何時来ても自分の木を見つけられるのです。
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Last updated: 2013/5/26