明野の生活
ひょんな事から明野に家を手に入れて、明野での生活が始まりました。でも事は思ったようには進まなかったのです


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21   畑を借りる
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 地主さんから連絡があったのは翌年1996年の3月でした。私は夫と二人で伺いました。あちらもご夫婦で迎えて下さいました。四方山話のあとで、地代の話になりました。ご主人が「タダと言う訳にもいかないから、このくらいでどうでしょう。」と言って、指を3本出されました。私が「3万円でよろしいのですか。」と言うと「3000円です。」と言われるので驚きました。
 
 こうして、1年間3000円で150坪ほどの畑を借りることになったのです。しかも、払うのは来年からで良い、とのことでした。

22   杉山さんとの出会い
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 私が初めて杉山さんと出会ったのは前述のアスター講習会より少し前のことでした。1995年2月に明野村花卉生産者連絡協議会で研修会があり、私は出来るだけ会員の方々とお近づきになろうと思って、参加しました。その日は「先進的農家」の見学に行きました。「先進的農家」とは要するに他の人の模範になるような農家、と言うことです。帰りのバスの中で、ある会員が他の会員に話しかけていました。「杉山さん、あのぐらいの農家なら、杉山さんの所へ行った方が良いくらいだわ。」 私は「え?この方はそんなに先進的農家なんですか?」と言うと、「そうよ。あなたも見せて貰いなさいよ。」と言われるのです。私が「見せていただけますか。」と言うと、気軽に「いいよ。」と、ニコニコしておられます。気さくそうなお人柄に気を強くして、早速お訪ねしました。
 杉山幸男さんはそのとき60歳代半ばくらいの、ベテランの農家でした。お宅にはビニールハウスが10棟ほどあり、ガラス温室も1棟あって、花壇苗や鉢物を大規模に作っておられました。冬だというのに、暖かいハウスの中では色とりどりの花が美しく咲き乱れ、「なんて良いお仕事なんだろう。」と思いました。
 「私にも出来る事はありますか。」と言うと、待っていたかのように「あるよ。」と言って簡単な仕事をさせて下さいました。それを機に私は暇さえあれば杉山さんのお宅を訪問するようになりました。

23   杉山さんで「農業研修」
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 1995年は私も忙しいことが色々あって、杉山さんのお宅に行く回数はあまり多くはなかったのですが、1996年以後、特に冬の間は2日に一回ぐらいの割合で杉山さんに通いました。
 自分の好きな時に「遊びに来ましたー。」と言って勝手に押し掛けていました。杉山さんはその都度私に出来そうな仕事を見つけては、させて下さるのです。ズブの素人で失敗も多かったのに、イヤな顔ひとつせずいろいろな仕事を教えて下さいました。これが、私にとっては大変な勉強になったのです。
 それから、一緒にお茶を飲みながらいろいろなお話を伺うのも楽しみでした。杉山さんはご夫婦とも大変研究熱心で、博学で、私の疑問、質問には何でも答えて下さいました。技術も高く、良い苗を作る、と、評判の方でした。役場、農協、普及所、市場、花屋さんにも顔が広く、信用が厚く、杉山さんのお茶の時間にはそういう方々がよく立ち寄って、いろいろな情報交換も行われていました。
 今まであらゆる農林業を経験され、ご苦労も並大抵ではなかったと思えるのですが、明るいユーモアで笑い飛ばされるのにも感心しました。
 このような「農業研修」は3年ぐらい続きました。
 杉山さんで種まきから苗作り、出荷まで経験させて貰っているうちに「私も自分で花を作ってみようかな。」という気持ちがわいてきました。手始めに1996年春アスターを作る事にしたのです。

24   夫が「たねまき器」を考案する。
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 ある日杉山さんでナスやトマトの種まきをさせてもらいました。プラグトレイの一区画に一粒ずつタネを落としていくのです。大規模にやるなら機械でやる農家もあるそうですが、10枚や20枚なら手作業なのだそうです。私は左手のひらに50粒位のタネを取り、ピンセットで一粒ずつつまんで蒔きました。とても根気のいる、肩の凝る仕事でした。うちに帰って夫にその話をすると、夫はなにやら工作を始めました。そして「たねまき器」を作ってくれたのです。翌日それを持っていって種まきをしてみました。とっても楽でした。杉山さんにも一つあげて使って貰いました。「たねまき器」のことは会の中でもいつの間にか評判が伝わり「欲しい。」という人がでてきました。夫は気をよくしてドンドン作って皆さんに分けてあげました。中には「特許をとって売り出せ。」という人もいましたが、夫は笑っていました。材料はたばこのカンピースの缶の廃物利用でしたから、タダで差し上げていました。
 

25   夫が育苗機を作る。
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 私が自分でアスターの苗を作るためには育苗機が必要でした。買えば何十万円もかかりそうです。夫に相談すると「俺が作ってやる。」と言うのです。
 外箱は板を買って来て作りました。間口と高さが1.3メートル、奥行きが65センチ程の箱です。熱源には、使わなくなった電気ごたつを使いました。あり合わせのファンも付けました。問題は温度調節装置でした。夫のアマチュア無線の仲間に横河電機の研究部門に勤めている人がいたので相談しました。この会社はラン栽培の装置なども作っている会社でしたので、彼は研究用に使った温度調節器具をタダで回してくれました。それを取り付けましたら、18度から32度ぐらいまでの温度調節の出来る育苗機が完成しました。お金がかかったのは外箱の板と釘だけでした。

26   初めてアスターを作る
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 こうして1996年春、私は杉山さんで教わった種まき技術を使い、夫の作ったたねまき器で種を蒔き、夫の作った育苗機に入れて、苗を育てました。必要な資材は杉山さんから分けて貰い、分からないことは何でも杉山さんに相談しました。
 その後も三木先生のマニュアルに忠実に育てました。I さんの紹介で借りた畑に、サクを作り、決まり通りに肥料を施し、マルチを張り、定植し、決まり通りに消毒もしました。
 消毒は夫が手伝ってくれました。夫は思っていたより農業に詳しく、私よりずっと基礎知識を持っていました。
 こうして初めて作ったアスターは、すくすくと育ちました。

27   アスターを市場出荷
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 明野村花卉生産者連絡協議会では会員が育てたアスターを共同で市場出荷する事になりました。私も「庶務係」として会員の皆さんの連絡役をしていました。ある人が「吉田さんはアスターを作っていないの。」と聞きますので、「作ってはいるけど、素人の私の花が売れる訳ないでしょう。」と言うと、「作っているならあなたも出しなさいよ。教えてあげるよ。」こうして私も出すことになりました。やり方は会員の中の前から市場出荷している人が教えてくれました。初めて出荷したときは私の花が本当に売れるのか半信半疑でした。
 アスターは「盆花」といって、お盆を過ぎると価値がなくなるので、市場へは8月7日から12日までに3回、250本出荷しました。最初に市場から「あなたが何時何時に出荷した荷は、いくらで何本売れました。」というお知らせを貰ったときは、天にも昇るほど嬉しかったです。この年出荷した分は全部売れました。いくらで売れた、と言うことは眼中になく、とにかく全部売れたことで有頂天になっていました。

28   アスターを直売所で売る
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 明野のヒマワリ畑のヒマワリも咲き始め、観光客もやってきました。会でも観光客にお花を売ろう、と、お店を出しました。出荷規定を作り、売り子当番を決めて、会で運営しました。私も売り子になったり、連絡調整役で、度々お店に顔を出しました。会員の皆さんがいろいろな花を持ってきて売っています。皆さんの花を見ているうちに、「私の花も出してみようかな。」という気になりました。会員の方に教わって花束を作って出しました。8月9日から13日まで4回、90束(270本)ほど出しました。
 この年は花束の売れ行きはとても良く、大体午前中には売り切れてしまう日が多かったです。私も売り子をしている人から電話を貰ってあわてて畑へ行って花を切り、花束を作って追加したこともありました。
 直売所で売ると花束は3本一束で200円で売りますから1本66円。市場では良くても1本40円ほどでしたから、直売所の方が割がよい、という事になります。大量に作っているなら市場出荷も良いでしょうが、私のような規模なら直売所の方が有利、と言うことも分かりました。

29   「自分の花が売れる」ということ
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 「自分で作った花が売れる。」ということは私にとって新しい喜びでした。それは赤の他人が「お金を払っても、欲しい。」と思うくらい価値を認めてくれた、という事でした。その上お金も入るのです
 でも私はお金儲けに力を入れすぎて、本職の農家の方々の商売の邪魔になってはいけない、と常に思っていました。私は花作りは趣味であって、それで生活しているわけではありません。年金暮らしの「良い身分」なのです。でも1996年から1997年頃はそんな心配をしなくても良いほど誰の花も良く売れました。殆どの人の花束が夕方には売り切れでした。

30   私の工夫
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 だんだん私は他の人と違う物を、と考えるようになりました。最初はみんな赤いアスターだけを3本束ねて売っていました。翌年私は赤、白、紫の3色の花束を作ってみました。これも好評でした。その翌年は皆さんもまねするようになりました。そしてみんなの中にも自分独自の色を工夫する人もでてきました。
  
 その翌年は当時出始めた小輪アスターを取り入れました。これはアスターが単に仏様用の「盆花」ではなく、何処に飾ってもおかしくないアレンジ用の花になった物でした。かわいらしくて、都会の若い女の子にも好かれそうな花でした。
 花束の大きさも長さも、市場出荷と同じ規格ではない、観光みやげとして売るのに適する商品作りを心がけました。大きくてボリュームがあるばかりが能じゃないと、短めの小ぶりの花束も作ったら好評でした。
 「吉田さんの花は可愛い。」とか「吉田さんの花はよく売れる。」とか言われ、真似する人もでてきました。会員の中にどうすれば良く売れるのか、と工夫する気持ちがでてきたことは良かったと思っています。



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