フランスアルプス
エクランをたずねて
中高年夫婦の車と足でのエクラン探訪記。
 
この文は1995年に書いておいたものです。
ホームページで発表する2007年では
諸事情は異なることをご承知下さい。
 


 21    テート・ド・ラ・メに登る
更新日時:
1995年7月8日
 朝起きて窓を開けると雲ひとつ無い青空。山の頂に陽が射し始めていました。早朝のバスに乗る人々はもう外に出ています。今日はテート・ド・ラ・メに登る日です。こんなに良い天気ならすぐにでも出発したい心境でした。でも通りを歩いている登山者は一人もいません。日本の山小屋ならもっと早くから歩き始める人もいるのに、と思いながら7時半のホテルの朝食時間を待ちました。
 身支度をして登山靴を履いて8時には出発しました。テート・ド・ラ・メヘの入り口は昨日確かめておいたし道標ははっきりしているし、道もわかりやすく、何の不安もなく歩きました。でも道はかなり険しく、途中からはクサリ場も出て釆ました。急傾斜の坂をジグザグ道でぐんぐん登るので、いつまでも目の下にラ・ベラルドの村が見えていました。村の奥のほうにヴェネオン谷が伸びて、はるか突き当たりは雪と岩の山が見えています。私達が登っている右手には、エタンソンの谷が南北に伸び、その突き当たりにはラ・メイジュが立ちはだかるように聾えています。谷の向こうにボン・ピエール氷河が見えます。
 足元に目をやると、見たこともない美しい花がたくさん咲いていました。種類も数もとても多いのです。とりどりの花が一斉に咲き出した、という感じで、至るところ花だらけ。花を探して歩く、という日本の山など目ではありません。大きなスミレや野バラが目につきます。色も濃いものが多く、紫のスミレ、ピンクの野バラ、インクブルーのリンドウ、赤いユリ、目に染みるような美しさです。
 ガイドブックによると登り2時間半、と出ていましたが、私達は4時間で良い、という覚悟で休み休みゆっくり登りました。朝は雲ひとつなかった空が、登り始めるころからヴェネオン谷の方向に雲が出始めました。雲は時間が経つにつれどんどん多くなり、山の稜線が見えたり隠れたりするようになりました。上空や近くの山のうえは青空が出ているのに、エクランの方角があぶないのです。気が揉めました。
 道はさっきの斜面を離れ、陰へまわりこみました。ずっと見えていたラ・ベラルドの村が見えなくなってすぐ雪渓がありました。私達は子供のように雪をつかんで投げました。
 間もなく頂上に着きました。ターブル・ドリアンタシオンには人が集まっていました。エクランはどれ、とターブル・ドリアンタシオンを見ると、目立つギザギザした高い山の陰に重なるようにしてかろうじてスカイラインが描かれている山が、ドーム・ド・ラ・ネイジュ・デ・ゼクランとわかりました。確かにエクランなのですがバール・デ・ゼクランではありません。それはここからは見えないようです。景色の方に目をやると、そこは陽が陰って、雲もうっすら湧いていて、とても見にくいのです。ちょっと肩透かしを食ったような気持ちでした。でも周囲の眺めは素晴らしく、特にラ・メイジュは堂々とエタンソンの谷の奥に屏風のように立ちはだかり、陽を受けて岩山の上の小さな雪渓までもよく見えました。私は回りじゅうの写真を撮りました。
 昼近くなっていました。山頂付近では10数名の人々が三々五々お弁当を広げています。私達もパンをかじり水を飲みました。くちばしの黄色い黒い鳥がパンくずなどをねらってすぐそばまでやって来ます。カラスとドバトを一緒にしたような鳥です。すこしパンを投げてやりました。昼寝をしている人もいます。私達も、少しは雲が動かないか、と思ってゆっくり山を眺めていました。一時間ほど山頂にいて下山しました。 
 下りは息切れもせず順調におりました。途中1ヶ所でドーム・ドゥ・ラ・ネイジュ・デ・ゼクランの稜線に陽が射して白く輝いているのが見え、何だか諦めがつきました。私達がクサリを使って登り降りしたところでは、横の岩登りのゲレンデで、ザイルを使って岩登りをしている二人連れを見ました。
 3時頃村に到着。宿の隣のカフェに入って飲物を飲んで一息いれました。夕方になって空には雲が多くなりました。5時頃には夕立が来るか、と思われるくらい暗くなりましたが今日は降らず、7時頃に陽が射して明るくなりました。やはりこの辺も天気は朝のうちの方が安定しているようです。
 7時半から夕食です。夕食が済んでから「明日は早く出発するので今夜お勘定をして下さい。」というと、話はすぐ通じて領収書を持って来たので支払いを済ませました。ところが「朝食のパンとバターを今夜貰いたい。」という話はなかなか分かって貰えませんでした。こういう事を言うお客はいないのかも知れません。私の拙いフランス語ではなかなか納得してくれません。そばにいた英語の出来るフランス人が助け舟を出してくれ、マダムもやっとなっとくしてパンとバターを包んでくれました。明日は今日のように朝の、天気の安定した時間を無駄にしないで済む、と安心して眠りにつきました。

 22    タンプル・エクラン小屋へ登る
更新日時:
1995年7月9日
 5時に目覚ましをかけ、起きました。空は雲ひとつない快晴です。嬉しくてたまりません。今日はタンプル・エクラン小屋まで登るのです。今度こそバール・デ・ゼクランの山頂が見られるでしょうか。自分でお湯を沸かし、持参のインスタント・コーヒーを飲んで、荷物をまとめ、トイレを済ませ、荷物は車に積み込んで、歩き始めたのは6時45分でした。登山基地の村なのに、村は寝静まっていました。私達より先を歩いている人は一人もいません。これから出発しようとしている人が5〜6人ユース・ホステルのような施設の前にいました。
 私達はヴェネオン川沿いの登山道を上流に向かって歩き出しました。川沿いのだらだら道でした。振り返るとラ・ベラルドの村が見えています。20分くらいは見えていました。この辺の川はどれも乳白色の雪解け水が踊るように駆けくだってきます。吊橋のそばで朝食にしました。昨日貰ったパンにバターをつけてかじりました。2つのパーティーが追い越して行きました。それ以外誰にも会いません。また歩き始めました。間もなく広い砂地の平らな場所にでました。主人曰く「これは昔の池だな。さしずめ大正池。さっきの橋は河童橋。」広っぱの中にかわいい小屋がありました。プラン・ジュ・カルレの小屋です。白い犬がしきりにほえています。小屋の外に椅子とテーブルがあり、カフェ・テラスになっていました。
 広っぱを過ぎてしばらくしてから、ヴェネオン川の本流から枝沢の方へ道は別れました。沢の橋を渡った頃からジグザグの急登になりました。普通の山道程度ですが、石がゴロゴロしていて、段もあり、水も流れているので、やはり登山靴を履いて来て良かったと思いました。昨日の道のようなクサリ場や鉄バシゴはありませんが、急なことは似たりよったりです。きつい登りでしたが、エクランを見るのを楽しみに、ひたすら登りました。
 9時半ごろギザギザの山が見えて来ました。これが目指すエクランか、と心が弾みます。地図で調べてみると、方角はあっています。とにかく写真を撮りました。でもまだはっきり分かった訳ではありません。喜びを押えつつひたすら歩きました。だんだん目の前が開けて来て、山の姿が大きくなりました。やはり間違いありません。とうとう来た、という成就感が込み上げてきました。それにしても何という上天気。雲ひとつありません。天気に恵まれた幸運を感謝しました。
 小屋が見えて釆ました。煙が出ています。洗濯物が干してあります。広々とした斜面に出ました。主人がマーモットを見付けました。かなりゆっくりした動きで駆けています。時々立ち止まってしっぽを上げ下げします。猫より大きく、かわいいしぐさです。それが姿を消したあと、もう一匹見付けました。何か食べているようです。いったん岩陰に隠れましたがまた出て来て、ゆうゆうと道を渡って行きました。
 小屋へ着きました。10時15分でした。小屋の前のベンチには10数人の人が休んでいました。私達も空いている席を見付けて座りました。私達の真ん前に座っていた青年に私達の写真を撮ってもらい、彼とその友達の写真を撮らせてもらいました、彼は、私達が日本人だと知ると、「僕は富士山に登ったことがあります。三島、裾野経由で登りました。」と英語で話してくれました。ここにいる人達はもう登って釆たのか、これから登るのかよく分かりませんでしたが、ザイルやカラビナを持った人や杖やピッケルを持った人など、本格的な装備を備えた人が多かったようでした。山の上を見ると、タンプルの方角へ登って行くパーティーが見えました。エクランの方角はすぐ上から氷河になっていて、そこを登っている人の姿は見えませんでした。
 私達はもっと良く山を見ようと、見晴らしの良い広い斜面の真ん中の大きな岩の上に座って地図を見たり、まわりじゅうの山を見たりしました。雲ひとつない青空が広がっていました。私は写真を撮りました。主人はスケッチをしました。「あれが本当にバール・デ・ゼクランだろうか。でもウインパーのスケッチとはちょっと形が違うようだ。もうちょっと上へ行かなければ本当の山頂は見えないのかも知れない。でも、この上は岩壁と氷河だ。私達の手の届かない世界だ。この辺で満足するよりないのかな。」などと考えていました。結局バール・デ・ゼクランの頂上を見た、という確信は得られませんでした。
 気持ちの良い場所だったのでもっといたかったのですが、これからラ・ベラルドで昼食をとり、次の宿泊地まで行かなければならない都合があったので、1時間ほど休んでから下り始めました。下り始めたころ、登って来る人に大勢あいました。ホテルなどでゆっくり朝食を取ってから登り始めるとこんな時間になるのでしょう。下りは昼食を楽しみにひたすら下りました。登りより1時間以上早くラ・ベラルドに着きました。

 23    ラベラルドの雰囲気
更新日時:
 ラ・ベラルドは山の中の登山基地。山登りする人でなければ用のない町、という雰囲気です。前日泊まったアルプ・デュエズがファッショナブルなリゾートなら、こちらは質実剛健、少し貧乏臭く汗臭い山男、山女の町です。町の中を登山靴、リュックという人々が闊歩しています。オフィス・ドゥ・トゥーリズムで貰った案内によると、通年開いているホテルは一軒だけ、ほかのホテルや店は夏の間だけの営業だそうです。冬は少数の本格派冬山登山者だけが訪れるのでしょう。
 ホテルに泊まっている人の気分は広河原というより上高地に近いかも知れません。登山基地にしてはみんな朝寝坊なのです。ホテルの朝食が7時半、ゆっくり朝食を食べてから三々五々出掛けるようです。本当にエクランを目指す人ならむしろラ・ベラルドのホテルには泊まらないでしょう。近くにキャンプするなり、車を駐車場に置いて、そのままタンプル・エクラン小屋まで登った方が良いように思えました。

 24    ラ・ベラルドのホテル
更新日時:
 オテル・デ・グラシエは新田次郎氏の本に出て来るので、名前は記憶していました。オフィス・ドゥ・トゥーリズムでホテル・リストを貰ったとき、出来たらここに泊まりたいと思いました。そしてホテル探しに来て真っ先に目に付いたのがこのホテルだったのでここに決めました。
 星なしホテルですから設備は整っていないのは、やむを得ないと思います。トイレ、シャワーが共同で部屋の外というのも料金から言っても文句は言えないと思います。見方を変えれば、こんな山の中なのに部屋ごとに洗面台とビデが付いていて水とお湯が出るとか、トイレは水洗だということの方をすごいと思わなければならないのかも知れません。山小屋だと思えば豪華ですがホテルと思えばお粗末でした。
 私達はいつもツインの部屋を取ることにしていましたが、ここにはダブルの部屋しかなく、妥協しました。ところがこの部屋のベッドはスプリングがへたったようなブカブカのベッドで、一人がちょっと動くともう一方へもろに動きが伝わります。二人で両端に寝たつもりでも、いつの間にか真ん中へおっこちてくる、という代物で、第一夜はとても安眠など出来たものではありませんでした。
 新田次郎氏は佐貫亦男氏と男二人旅だったはずですが、このようなぺッドにどうやって眠ったのだろう、と二人で考えました。男同志がベッドの真ん中におっこちて寝ている姿を想像して喜んでいました。でも35年前のことですから、ベッドのスプリングももっとしっかりしていたかも知れません。
    
 次の日主人は「俺は床に寝る。」と言い出しましたが、考えた末、最初から二人で真ん中に寝るつもりになれば良いじゃあないか、という事になり、第二夜は安眠することができました。夫婦とは便利なものです。
 床はビニール・タイル張り。朝起きて、わたしがいつもの習慣で、部屋でラジオ体操を始めたところ、主人があわてて止めました。床がギシギシいうのでまわりの迷惑になると言うのです。洗面台も何十年使っているんだろうという旧式のものでした。ほかの部屋で水道を使ったりトイレを使うとホテルじゅうに音が響きました。でも部屋はかなり広く、清潔でした。
 「さすがホテル。」と思わせられたのは、レストランのサービスのし方です。食事の内容は、こんな山の中なのですから、有り合わせ、とか、保存食中心になるのはやむを得ないと思いますが、アントレも二種類、メインも二種類、デザートは四種類の中から一つを選ばせます。ビフテキを頼むと焼き具合を聞きます。普通の、町のレストランと同じようにアントレ、メイン、チーズ、デザートを順番に一品ずつ持って来ます。レストランには泊まり客以外にも3〜4組のお客が入っていましたから、一人で全部のサービスをする若いマダムは大忙しでした。レストランなら当たり前、と言ってしまえばそれまでですが、こんな山の中のお租末な設備の安ホテルでも、きちんと守られているのには、感心しました。
 ちなみにここで食べたのは
 1日日
  ハムとソセージの盛合わせ、ビーフステーキにレタスと小麦粉の揚げ団子添え、チーズ、デザートはクレープ(むしろパンケーキに近かった)
 2日日
 トマトサラダ、虹ますのバタ焼きにグリンピースとレタス添え、チーズ、デザートはアイスクリーム
 でした。

 25    登山スタイル
更新日時:
 グルノーブルからアルプス方面へ入って来ると、山登りをする人々を多く見掛けるようになりました。登山靴を履いてリュックを背負っているのは日本の登山者と同じなのですが、我々の常識から考えると、「おや。」と思う事が幾つかありました。
 まず帽子をかぶっている人が少ない事。町でも帽子をかぶっている人は殆どなく、町より山のほうが少しは多い、と感じました。野球帽や、ツバの狭い登山帽などでした。山では落石などあったらケガをするのではないかと思います。日よけとしては、サングラスをかけている人が多いようでした。
 服装は、昼間日が出ている時は殆どの人が半袖Tシャツ、短パンです。中には上半身はだかでリュックを背負っている人も珍しくありません。いかにも太陽の恵みを出来るだけ享受しようというヨーロッパ人らしいスタイルですが、日本だったら山へ行くなら夏でも長袖長ズボンというのが普通でしょう。日焼けや虫を防ぐ、ヤブコギなどの時ケガをしないため、と、いろいろ理由があるはずです。その必要はないのでしょうか。
 まず、この辺は標高がかなり高く、日本ほど蚊やブヨがいるようには思えませんでした。日焼けは、防ぐという人はおらず、むしろ好んで日焼けをしたがっているようでした。ヤブコギは、この辺は草丈が低く、登山道が整備されているので普通のコースを歩くのでしたら対策は必要ないようでした。しかし私も一回蹴つまずいて転んだときズボンのひざを破いてしまいましたが、これが素足だったらだいぶひどいケガになったと思います。こちらの人は蹴つまずかないのでしょうか。
 気温から考えて、私だったら半袖では寒いのではないかと思うような所でも、こちらでは平気で半袖で過ごしている人々をよく見掛けました。でもさす がに早朝などは長袖、長ズボン、又はタイツのようなものを着用していました。
 今回私達が歩いたのは3000m以下の中級コースでしたから私達が見掛けた服装 も割りと軽装だったのかも知れません。それでも登山靴はしっかりしたものを履 いている人が多かったように思いました。そして多くの人が杖のようなものを持 っているのです。スキーのストックを短くしたようなもの、伸縮式の杖、ピッケ ル、そして普通の杖など形式は様々でした。そして実際、杖をつきながら登って いる人がたくさんいました。この程度の山道なら杖など要らないのではないか、 とも思いましたが、雪渓を歩くのでしたら杖一本あればこんなに心強いことはな いでしょう。私達も又来るときがあったら杖を持って来ようと思いました。
 それから、これはスタイルとはちょっと違いますが、山で出会ったとき挨拶を すること。これは日本と同じだと思いました。「ボン・ジュール」「ボン・ジュ ール」というのが普通ですが、「ボン・ジュルネ(良い一日を、)」「ヴ・ゾス ィ(あなたにも)」なんかも素敵だと思いました。山を降りて来ると登山者と観 光客が交じり合うところがあります。観光客は挨拶しません。登山者同志はそん な所でも挨拶をします。何か連帯感のようなものを感じるのでしょうか。

 26    ブリアンソンへ
更新日時:
1995年7月9日(午後)
ラ・ベラルドヘ降りたら2時になっていました。遅目の昼食をとり、2時45分に は出発しました。来たときと同じ、怖い道を戻りました。外に道はないのです。 でもこの道をバスが走ると思うと、バスの運転手さんはさぞ大変だろうと思いま す。でもそれより怖いのは、バスと出会ってしまった一般車でしょう。「この道 はベンツなんかで来る道じゃないな。ジムニー(日ごろの主人の愛車)で来るの がちょうどいいよ。」と言いながら、ブレーキとハンドルの操作に余念がありま せん。
 やっと国道N91へでました。この道はロマンシュ谷に沿ってラ・グラーヴ、ロ ータレ峠、ブリアンソンヘと続いています。対向2車線ですが、道幅は狭く、屈 曲が多く、国道にしては走りにくい道でした。私達はブリアンソンヘ向かって坂 を登るように走って行きました。この道へ入ってから自転車が多いことに気が付 きました。私達の車線はそれほどでもないのですが、反対車線、坂を下って来る 方向にやたらと多いのです。自転車部隊については別の章「自転車部隊」で書 こうと思いますのでここでは省略しますが、自転車を気にしながら、やがてラ・ グラーヴに着きました。
 もう4時を過ぎていました。私の心づもりでは、今日はここに泊まればよいと 考えていました。主人も午前中は山登り、午後は神軽の疲れる運転を2時間もや っているのでさぞ疲れた事だろう、と思ったのです。
 ここはラ・メイジュ見物の基地です。目の前に迫力のあるラ・メイジュが大き く聳えています。ラ・メイジュを見物するためのロープウェイが3200mの所まで 観光客を運びます。発着所の周辺には大きな新しいホテルがいくつも並んでいま す。観光客がゾロゾロいます。今日はここに泊まって、明日の朝はロープウェイ に乗りたい、と私は思っていました。
 ところが主人はしばらく辺りを見ていましたが、「このままブリアンンまで行こう。」と言うのです。まだブリアンソンまで20km以上もあります。ラ・グラーヴからブリアンソンまでには私が「行って見たいな。」と目を付けていた所が幾つかありました。ル・シャズレ、コル・デュ・ガリビエ、コル・ドゥ・ロータレ、コル・ドゥ・グラノン、セール・シュバリエなどです。ラ・グラーヴに泊まれば翌日ブリアンソンまで行く途中で寄ることも出来ます。私はまだこだわっていました。でも主人は「そんなに行きたければブリアンソンからまた戻ってもいいんだよ。」と譲りません。主人の疲れも気になりましたが、本人があえて言うのですから従いました。時間も遅いし、ブリアンソンヘ直行しました。何故主人がラ・グラーヴに泊まりたくなかったかについては、別の章「お金がなかった話し」で書くつもりです。
 ブリアンソンの町へ着いたらまずオフィス・ドゥ・トゥーリズムヘ行き、資料を貰いました。今日はこの町で1番か2番のホテルヘ泊まることに決めていました。ホテル・リストを見て地図を見て車を走らせ、無事2番目のホテルに泊まることができました。
 ブリアンソンはイタリア国境に近いフランス・アルプスの山懐の町です。こんな山奥なのに、城壁に囲まれた中世の古い町があります。標高1326m、ヨーロッパで1番高い城壁の町、というふれこみです。スキー場やエクラン自然公園にも程近く、観光のメッカです。この町にはデュランス河が流れており、昔見た映画「河は呼んでる」を思い出します。
 今日のホテルは3ツ星の、この町にしてみれば最高級のホテルです。疲れていたので夕食もホテル内のレストランで食べました。お洒落をした、気取ったお客さんが一杯いました。私達は100フラン(約2000円)の定食をたべました。ゆったりしたサービスの間に私達は居眠りをしてしまいました。そのうえ主人は連日の山歩きで足腰が筋肉痛になり、歩くのもつらい、という状態で、レストランを出るときはチンパンジーのような恰好で歩くので、おかしいやら恥ずかしいやらで、困りました。

 27    ラ・グラーヴからブリアンソン
更新日時:
 前の章でも書いたように、予定を変更して、ラ・グラーヴは素通りしてブリア ンソンヘ直行したので、当初行ってみよう、と思っていて、行けなかった所があ ります。
 まず、ラ・グラーヴでロープウェイに乗ることとル・シャズレです。でもラ・ メイジュはエタンソンの谷の方からもしっかり見たし、ラ・グラーヴからでも十 分迫力ある姿を見ることが出来ます。これはすぐ諦めがつきました。
 コル・デュ・ガリビエ コル・ドゥ・グラノン。ここはもしかしたらエクラン が見えたかも知れない地点なので、ちょっと残念でした。
 コル・デュ・ロータレは、見晴らしの良いところなので、車を止めてゆっくり 眺めたかったのですが、夕方で先を急いでいたので素通りしてしまいました。
 そしてセール・シュバリエ。ここは一旦素通りしたのですが、ブリアンソンか ら近かったので、7月10日の午後、行くことにしました。天気は上々。その頂上 からエクランが見えるかも知れないのです。下のロープウェイ乗場まではブリア ンソンから車で10分、ロープウェイを2つ乗り継ぐと頂上です。ガラガラのロー プウゥイに乗り、中継駅まで来て、乗り換えようとしたところ、「これから上は 機械故障のため、閉鎖」と言う掲示が出ていました。頂上まで行けないのならこ こに来た甲斐がありません。すぐ引き返しました。
 ブリアンソンでは2泊して、1日はヴァル・ルイーズやエール・フロアドの方へ 足を延ばし、モン・ペルヴーを、出来ればエクランを見たいと思っていましたが 、時間がなく、その計画は取りやめにしました。旅も終わりに近付き、帰りの日 が迫っていました。それに私達の疲労も溜まっていたのです。無理はしないこと にしました。
 7月11日、消化仕切れなかった計画に心を残しながら、私達はパリに向かって出発しました。行く前に考えていたよりずっと多かった収穫と、良い 天気に恵まれたことに感謝していました。
 今回のアルプス探訪は、フランス旅行の一部でしかなかったのですが、実際に 来てみて、アルプスだけの為に、もう一度来なければ、という思いが残りました 。

 28    ハプニング 駐車場でのトラブル
更新日時:
 アルプ・デュエズで朝を迎えた7月7日金曜日、私達は6時ごろ目が覚めました。3階の部屋の窓から、良く晴れた空と、谷の向こうに連なる山々を見て、早く今日の行動をスタートしたいもの、とワクワクしていました。
 すぐ目の下には駐車場があり、私達の車を含めて3台程の車が駐車しています。「それにしても、ウチの車はやっばり大きいよね。」上から見て他の車と比較すれば良く分かります。私達が借りたのは、ベンツのエレガンスC180という車でした。日頃私達が乗っている車とは桁違に大きく、乗心地はとても良いのですが、狭い道での擦れ違いや、狭い場所に駐車するときは、汗のかきっぱなしでした。そんな思いで、上から見ていたとき、その駐車場へ大きなトラックがやって来ました。続いて同じような車が2〜3台つきました。何かホテルに納品にでも釆たのかと思いました。トラックからは2〜3人の人がおりました。その人達が私達の車をしきりに挑めて、何か話し合っています。声は聞こえません。「最新型の車なので珍しがっているのかな。」最初は思いました。そのうち車に寄かかったり、なでたりし始めました。車の中を覗き込んでいる人もいます。イヤな気持ちになりました。仲間のトラックの人達も降りて来て話し合っています。納品に来たのならサッサと品物を置いて帰れば良いのに、と思いながら見ていましたが、品物を置く気配も、立ち去るそぶりも見せません。フト、厭な予感がしました。何かちょっとした事故でもあったのではないでしょうか。それは大変です。すぐ下に降りて行きました。ところカギがかかっていてホテルから外へは出られません。ホテルの人はまだ寝ているようです。仕方なく又部屋へ戻って上から見ていました。
 そのうちパトカーが来て、おまわりさんもやって来ました。トラックの人達は駐車場の広く空いた方に車を移動させて、荷物を降ろし始めました。時々、忌ま忌ましそうに私達の車を見ています。私はハツと思い当たりました。この人連はここでマーケットをやろうとしているのではないだろうか。やはり早くこの人達と話し合わなければなりません。急いで降りて行くと、ちょうどホテルの人が起きてカギを開けているところでした。「私達の車をあそこに駐車しておいても良いんですか。」するとホテルの人は「ええ、かまいません。明日は土曜日だからマーケットが開かれますが、今日は良いんです。」という答えです。私は外に出て聞きました。「この車は私の車ですが、何か問題があるのですか。」するその人達はホッとした様子で、「ここでマーケットをやるので、この車をどけてもらいたいんだ。」と言うのです。では、どこに動かそうか、と考えている所へ、ホテルの人が慌てて出て来ました。「忘れていたけど、今週からは金曜日もここでマーケットをやるんだったんだ。」主人が指定された所へ車を動かしました。一件落着。メデタシ、メデタシ。
 ところが、あと2台駐車場に車が残っています。どうするんだろう、と今度はヤジ馬です。そのうちレッカー車がやって来て、車を移動し始めました。私達は「早く気が付いて、レッカー移動されなくて、良かった、良かった。」と思いました。そこへ突如一人の男の人がやって来ておまわりさんにくってかかりました。どうやらレッカー移動された車の持主らしいのです。それなら怒るのも当たり前、と私達は思いましたが、おまわりさんもあとへ引きません。大分長い間口論をしていました。
 元はと言えば、ホテルの人が前日に「明日はここでマーケットをやるので、駐車禁止」とでも掲示を出しておけば良かったのを、忘れて、お客に駐車させてしまったのでこんな事になったのでしょう。
 こんな事件のお陰で、ここは町の中心なんだ、という事と、これからがいよいよバカンス・シーズン本番なのだ、と言うことがわかりました。私達が朝食を終え、ホテルを出るころには、先程のトラブルは跡形もなく、道の両側20メートルほどの長さには、果物、野菜、花、チーズ、衣類等のお店が賑やかに店開きしていました。

 29    ハプニング お金がなかった話
更新日時:
ブリアンソン
 アルプ・デュエズに泊まったのは7月6日木曜日でした。「明日は金曜日だけどお金は大丈夫?明日両替しないと土日は銀行が開いてないからね。」「じゃあ、明日はブール・ドアザンの町に出たらまず両替だ。」そういう会話を交わしてその夜は床につきました。
 私達のお金の殆どは円建てのトラベラーズ・チェック、それに日本円の現金が少し、あとはクレジット・カードでまかなって釆ました。 4〜5日に一回、町の銀行でトラベラーズ・チェックを5万円ぐらいずつフランス.フランに両替してお小遣いにして、ホテルやレストランの支払い、ガソリン・スタンド、大口の買い物はクレジット・カードで払って来ました。その時は手持ちのフランが少し減ってきていたのです。
 しかし翌日になって、ブール・ドアザンヘは降りないでコル・ドゥ・サレーヌの方へ回ろうと主人が提案しました。そちらの方が景色が良さそうだ、というのです。
 素晴らしい山や谷の挑めに陶酔し、滝があった、羊の群れを見た、と喜び、「こちらのコースヘ来て良かったね。」と、ご満悦でした。お金のことは二人ともケロッと忘れていたのです。銀行はおろか、食事処さえも見付からないような山の中でした。国道N91へ出てしまいましたので、「ブール・ドアザンまで戻ることはないよ。このままラ・ベラルドヘいっちゃおう。」という主人の言葉に、私も賛成し、ラ・ベラルドヘの道を突き進みました。この道は前に書いたように、狭くて危険な、乗っているだけでも手に汗を握るような、思い出してもゾッとする道でした。そして何とか無事にラ・ベラルドの村に着いたのです。ホテルも決まって、部屋でホッとした時、突如お金の事を思い出しました。金曜日の4時を過ぎていました。
 ホテルの人に聞きに行きました。「このホテルではクレジット・カードが使えますか。」「ノン。」「このホテルでは両替をしますか。」「ノン。」「ここのオフィス・ドゥ・トゥーリズムでは両替をしますか。」「ノン。」「この村に銀行はありますか。」(聞くも愚かでした。)「ノン。」万事窮す、という事態です。「私達お金を持っていないんです。どうしたら良いでしょう。」と言いますと、宿の人もぴっくり。せっかく入って来た客から料金を取りはぐれては大変、と思ったのでしょう。一生懸命考えてくれました。
「今日はもう間に合わないが、明日の土曜は午前中だけ銀行が開いています。明日ブール・ドアザンまで行って来れば良い。」と事もなげに言います。あんな怖い道を、「行って来い。」 とはよくも簡単に言えたものだ。と内心思いながら、「明日はぜひ山登りをしたいのです。もう一度主人と相談してみます。」と、一旦部屋に戻りました。
 部屋に戻って主人に一部始終を話しました。私達の有り金を全部出して計算しました。金額によっては2泊出来ないかも知れません。有り金はお札で720フラン、コインで100フラン程でした。宿泊料は一人一泊2食付きで180フラン、二人2泊で720フランですから何とかギリギリ間に合いますが、昼食2人2回分では少なすぎます。飲物も買えません。さあ、どうしようか、と二人で顔を見合わせました。せっかく苦労してやって来たラ・ベラルドです。二回の山歩きを計画していました。それを諦めるのは残念です。予定どおり2泊することに決めました。その代わり、夕食の時もワインも飲めません。山から帰ってもジュースも飲めません。昼食は一人分を二人で食べるよりありません。それも仕方ない、と決断しました。
 再び宿の人に話しに行きました。「720フランは有ったから心配しないで下さい。」というとホッとしたような顔をしました。「でもあと100フランしかありません。」というと、「じゃあ、昼はサンドイッチでも食べるのね。」と冷たく言われました。
 お金のことが一段落したので村の偵察に出掛けました。「ちょっとお土産屋を見ても良い?」と私が言うと、主人が「金はないのだぞ。」と、怖い顔で言います。そうすると見る気も起こらなくなるのでした。お金の無い惨めさをつくずく味わいました。
 村をプラついていて、主人が別のホテルとその横のカフェ・テラスに目を止めました。「おい、あのホテルでカードが使えるか聞いて来い。」と言います。もしカードが使えるなら、今のホテルは1泊だけにして、そっちへ移る、というのです。でもやはりカードはだめでした。しかしカフェ・テラスの方は、聞く前に、「カード使用可」のステッカーが目に入りました。でも半信半疑、カードを見せて念を押しました。するとOKと言うのです。地獄に仏とはこのことです。喜び勇んでその店に入り、ビールとジュースを注文しました。そのジュースのおいしかったこと。結局、翌日と翌々日の昼食もここでお世話になりました。
 オテル・デ・グラシエでは、しけた客と思われて、「飲物は何にしますか。」とか「ワインは。」等とは聞きもしません。当然ですが。
 そういう訳で、残った100フランは、帰りがけに絵葉書を3枚買って、97.5フランになり、7月9日日曜日、ラ・ベラルドを後にしたのです。
 この日の宿泊予定地は一応ラ・グラーヴと決めていましたが、主人は「行ってみて気にいったらそこに泊まるが、気に入らなかったらブリアンソンまで行く。」 と言うのです。私はブリアンソンまで行くのは主人の負担が重くなり過ぎると思って、「ラ・グラーヴで泊まりましょう。」と言うのですが、主人ははっきりした返事をしません。
 私達の作戦は、次のホテルはカードで払える高級ホテルにし、月曜日に銀行が開いたらすぐ両替に行こう、というものでした。ラ・グラーヴに着きました。新しい高級そうなホテルが並んでいます。「あ、あれは3ッ星、あそこならカードが使えそうよ。.」と言う私を尻目に主人は、「どうもこの町は気に入らないから、ブリアンソンまで行く。」と言うのです。「明日は、ラ・メイジュ見物のロープウェイに乗って、etc.」とプランを練っていたのに、もろくもくずれました。走り出した車の中で、「どうしてラ・グラーヴは気に入らないの?」と聞いてみました。主人いわく、「この町はもともと小さな町らしい。観光ブームで立派なホテルは有るが・・・第一、お前、銀行を見掛けたか。」と言うのです。「あっ、そうか。ホテル代はカードで払えても、ロープ・ウェイに乗るお金は銀行で手に入れなければならないわね。カード払いが可能かも知れないけど、こんな山の中では当てにならないし。せっかく泊まってもお金がなければどうせ素通り、それならブリアンソンヘ行った方が銀行のある確率が高いわね。なるほど。」と納得しました。
 ブリアンソンでは3ッ星の、この町では最高級クラスのホテルに、車を停めました。レセプションでまず聞きました。「このホテルではカードが使えますか。」 OKとのこと。安心して宿泊を決めました。ついでにホテルで両替をするか聞きましたが、しない、とのこと。「いいわ、明日は月曜日だから銀行で両替するわ。」と何気なく言いますと、「銀行は明日はお休みです。」と言うのです。ビックリして「ドーシテナノ?月曜なのにお休みなの!?」と、言いたかったのですが、こういうことは言ってもムダ、と思いましたから、「エツ、どうしよう。私現金を持っていないんです。」と言いました。すると「だいじょうぶ。オフィス・ドゥ・トゥーリズムで両替してくれますよ。」と言うので一安心。明日は何が何でも一番にオフィス・ドゥ・トゥーリズムヘ行こう、と決めて、その夜は寝心地の良い高級ホテルのベッドで眠りにつきました。
 翌朝目を覚ますと、何と、通りを隔てた私達の部屋の真向いに銀行があるのです。「月曜なのに銀行が休みって本当かしら。」と思って見ていましたがいっこうに開く気配がありません。祝日でもなく、ガイドブック類にもそんな事は一言も書いてないのに、よりにもよって今日が休みなんて、恨めしい気持ちでした。
 オフィス・ドゥ・トゥーリズムが開く時間に合わせてホテルを出ました。私達のホテルは下町の、デュランス川と支流のギザンヌ川の合流点に近いところで、旧市街は山の上に見えてはいますが、かなり急な坂を30分以上歩かなければなりません。私達は旧市街目指して歩き始めました。途中、通りに面した窓口にキャッシュ・ディスペンサーがありました。ここだけは銀行が休みでも動いており、利用している人がいました。「カードでお金を出そうか。」と主人が言うのを、「要らない、要らない、現金を出すと手数料って結構高いのよ。高利貸並なんだから。オフィス ・ドゥ・トゥーリズムで両替してくれるって言うんだからいいじゃない。」と 私は反対してどんどん坂を登りました。やっと着いた旧市街のオフィス・ドゥ・ トゥーリズムでは、「ここでは両替はやりません。この先の郵便局でやっていますからそこへ行って下さい。」と言われました。地図を貰い、郵便局の位置にマ ークを付けて貰って郵便局へ行きました。城壁の外の、歩いて5分くらいかかる ところでした。
 3〜4人の列に並んで、やっと私の番が来て、「日本円なんだけど、両替して貰えますか。」と聞きました。すると「日本のお金はだめ。銀行へ行きなさい。」 とニベもありません。「だって銀行はお休みなのよ。」と言いたかったが言って も無駄、という事はわかっていました。
 シオシオと引き下がり、外で待っていた主人に報告しました。主人はムスッと した顔で黙って歩き出します。そしてどんどん古い城塞の方へ歩いていきます。 「お城の入場料も払えないんじゃあ、行っても無駄じゃないの。」と言っても返 事もせず歩きます。お城の入り口に料金所がありました。1人18フラン、2人36フ ランです。これなら何とか払えます。お城の中を見物しました。それから古い町 を歩きました。面白そうな店がいっぱいあって、私が入りたそうにすると、主人 が「金は無いのだぞ。」と言って引き留めます。恨めしい思いで外から挑めるだ けでした。主人は写真を撮りながら町をウロウロ歩き回りました。気が済むだけ 写真を撮り、さあ、帰ろう、と、坂をおり始めました。 「ねえ、さっきのキャ ッシュ・ディスペンサーでお金を出そうよ。」もう、頼りはあれだけでした。「 さっきお前は何て言った。多少手数料は高くても、手に入るとき手に入れなきゃ ダメなんだぞ。」私は謝るだけでした。それにしてもどうしてこうも運の悪い事 ばかり重なるのだろう、と、運命を呪いながら。
 前の人を見習って、カードを入れ、ボタンを押し、800フランのピン札が出て 来た時は、本当に天にも昇る心地でした。それから落ち着いて昼食を食べ、買い物をしたのでした。本屋とスーパーでいつもよりたくさんお金を使いました。財布の中に現金が入っているって、何と安心な事だろ う、としみじみ思いました。
 午後は昨日行きそびれた、セール・シュバリエに行ってロープ・ウェイに乗っ たり、帰りはキャッシュのみというガソリン・スタンドで、ガソリンを注ぎまし た。
 その夜はもう一泊ブリアンソンで泊まりました。火曜日になって私達の部屋の 真ん前の銀行が開きました。チェック・アウトを済ませてすぐ銀行に行き、多め に両替をしました。「早めの両替。」これがその後の私達の旅の合言葉になりま した。

 30    ハプニング 朝食獲得作戦
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 こちらの山の天気も日本の場合と似て、早朝は雲もなく安定していますが段々雲が沸いて、昼ごろにはかなり多くの雲が山をかくしてしまいます。そして午後には夕立が釆て、それが過ぎると夕日が見られる、というパターンがあるようです。私達がアルプス地方を旅行した時期はそんなふうでした。
 日本でも、夏は早朝午前4時に小屋を出て歩き始め、8時頃までに見晴らしの良い場所へ登っていなければならない場合もあります。そして午後は夕立の来ないうちに早めに下山するか、小屋へ入る、というパターンがあります。
 ラ・ベラルドのホテルでは、朝食が7時半。ここでゆっくり朝食を食べるとトレッキングヘの出発は8時半ごろになってしまいます。朝の安定した天候の時間を、じっと朝食を待っているのはつらいものでした。ホテルなんかに泊まったのが失敗の元、といえるかも知れませんが、買い置きの食料もなかったし自炊の準備もして来なかったので、仕方がありませんでした。第1日目はそうして遅い出発時間となり、山に登り始めた頃から山にはどんどん雲が沸いて、頂上に着いたころにはお目当てにしていた東南方向の山は殆ど雲に隠れていました。
 そこで翌日は何とか早い時間に出発しようと考えました。でも朝食を全く食べないというのでは身が持ちません。ホテルの朝食を早く食べる方法はないかと考えました。そこで思い出したのが25年前、二人でスイスのインターラーケン近くのベアテンペルグの村のホテルに泊まった時の事です。その夜「明日はジュネーブまで行きたいのだが。」と言いますとマダムは「それでは朝一番のバスが6時ごろ出るのでそれに乗りなさい。」と言って、ジュネーブまでの鉄道の乗り継ぎの細かい時程表を書いてくれたのです。感謝して夜のうちに支払いをして、「明日の朝食は要りません。」と言うと、「そんな必要はありません。今夜の内に用意して、部屋の外に置いておきますから、食べてから出発しなさい。」と言うのです。起きてみるとドアの外のテーブルの上に、お盆に載せられた二人分のパンとバター、ジャム、魔法瓶の中に暖かいコーヒーが用意されていたのです。宿の人の暖かい心づかいが嬉しく、このホテルの事はずっと印象に残っていました。
 ここ、ラ・ベラルドのホテルでも頼めば多少の事はしてくれるのではないか、と期待して頼んでみることにしました。私のフランス語で通じるかな、と多少の心配はありましたが、今まで一応の用は足りているので、勇気を出して二日目の夕食後、若いマダムを呼んで説明し始めました。まず「私達は明日早く出発して山に登る。だからお勘定は今夜済ませたい。」ここまでは通じました。マダムはお金を受け取り、領収書を持って来ました。つぎに「荷物は全部車の中に入れて置くが、車は午後まで預かって貰いたい。」これも通じました。「明日の朝食を早く用意して貰う事は出来ないだろうか。」こう言ったとたん相手は物分かりが悪くなりました。「何を言っているんだろうか。」と言う顔をされました。若いマダムは奥へ言って年かさのマダムを呼んで来ました。そのマダムは「そんな事は出来ない。」「朝食は7時半だ。」の一点張りです。「7時半に朝食を食べてから出発しなさい。」と言い張ります。私も粘りました。
 私:「では今夜の内に用意しておいて貰えないだろうか。」
 マダム:「でもコーヒーが冷めてしまう。」
 私:「ではコーヒーは要らない。パンとバターだけで良い。」
 マダム:「部屋で食べてはいけない。食堂で食べる規則だ。」
 私:「ではパンは山へ持って行って食べる。部屋では食べない。」
 そこで又「何を言ってるんだろうか。」という顔です。全然理解して貰えません。もう諦めようか、と思った時です。少し離れたテーブルにいた家族づれの若い奥さんが私達のテーブルに来て、「ドゥー・ユー・スピーク・イングリシュ?」と聞いてくれたのです。私が下手なフランス語で悪戦苦闘しているのを見かねたのでしょう。私は早速英語で私達の希望を説明しました。その人は年かさのマダムに説明してくれました。最初はそれでも不審そうな顔でしたが、やがて「分かった、分かった。」と言ってフランス・パンとバターをベーパーナプキンに包んで持って来てくれました。私は若い奥さんに何度も「サンキュー・べリ・マッチ。」を繰り返しました。
 大分汗をかきましたが諦めないで本当に良かったです。山では食糧は大切ですし、他所で買おうにも、前の章で書いた通り、私達はそのとき文無しだったのです。その日の朝と昼に大切に食べました。
 なぜ私のフランス語が通じなかったのか、後で良く考えました。文章や単語は間違っていなかったはずです。要するにこのホテルではいままでにそういうことをやったことが無い、そういうことを要求する客が一人もいなかったのではないか、と思いました。改めてスイスとフランスの違いを思わされました。

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